第111話 妖物
文字数 2,350文字
訓練に身が入らない。月龍は、ほとんど無為のうちにその日の仕事を終えた。
蓮が自発的に帰って来たとき、しまったと思った。これで彼女を助け出すという算段は消え、好意を示す好機を逃してしまったと。
だが次に安堵した。一晩を過ごすはずだった蓮が、夜明けを待たずに帰ってきたのは無事を意味しているのだから。
同時に、不安も覚えた。月龍を見限ったからこそ帰ってきたのかもしれない。どのような罵詈雑言を浴びせられるか――否、罵られるだけならばいい。きっと、捨てられる。
否、と再度否定する。逃げ帰ってきたことを詫びるつもりではないか。それでも別れないでと、縋ってくれないだろうかと期待交じりに考える。
結果は、両方違っていたけれど。
楊闢の毒手に身を委ね、蓮はなにを思っただろう。虚ろな瞳から涙を流し、完全に表情を失った顔に、胸が痛い。
「――今宵はよろしいのですか?」
臥牀の中、ただ抱きしめる月龍に問うてきた蓮の声が、冷たい。感情の見えぬ顔、声に応える言葉はない。返事をせず、黙ったまま腕に力をこめる。
前日に引き続き眠ったふりをする月龍と、おそらくは同じなのだろう、眠ったように無反応の蓮と、辛いだけの時間を過ごした。
早朝、先に臥牀を抜け出した蓮に身支度を手伝ってもらい、邸を後にする。その間はずっと、無言だった。
蓮に辛い思いをさせた。罪悪感はもちろん、嘘ではない。
けれどただ欝々と重ねられる気まずい時間がこれからも続くのだと思えば、その方が辛いと感じてしまう。
はぁ、と自覚なく洩れたため息が深い。
「これは
不意に聞こえた声に、身を竦ませる。
振り向いて確認するまでもない。常でさえ会いたくない人物――今日はまた一段と顔を合わせたくない男だった。
だが上官を無視することもできない。腹に力を入れて、振り返る。
「楊閣下」
そこで見た楊闢の薄笑いが、月龍の背骨をさっと逆撫でした。
「なにかご用ですか」
「用があるのはそちらかと思い、わざわざ足を運んだのだがな」
「私が?」
お前になど会いたくないし、会う理由もない。顔を見るのも嫌で、目を床に落としながら心の中でつけ加える。
「礼儀知らずは相も変わらずか」
ふん、と楊闢は腕を組む。
「念書を交わしたからと言って話は終わり、ではないだろう。謝辞の一つも口にするのが道理であろうが」
ギリ、と爪が食いこむほどに拳を握りしめる。
なにが謝辞だ。この男になにを感謝しろと? 蓮を汚したこと、泣かせたことか。
もっとも、その負担を強いた月龍に言えた義理はない。自覚があるから、歯を噛みしめて怒鳴るのを堪える。
「無骨も過ぎるぞ。貴官は遠からず外戚入りする身。裏の付き合いも必要となろう。少しは気をつけるといい」
「――ご忠告、痛み入ります」
辛うじて、そう返す。
楊闢はなにも、親切で言っているわけではない。念書の通り、楊闢は月龍の出世に力を貸してくれるだろう。推薦者である自分の顔に泥を塗るなと言いたいのだ。
「しかし、貴官はよい拾いものをした」
楊闢が不意に、笑みを刻む。決して人の心を和ませる類のものではない。見る者に嫌悪感を与える、下卑た笑顔だった。
「公主はよほど、貴官に惚れこんでいると見える。私をお嫌いなご様子だったが、貴官の名を出すだけで色々と尽くしてくれたぞ。他の高官にも貸し出せば、皆喜んで貴官の後ろ盾となろう」
蓮を売っての出世になんの意味がある。その蓮と一緒になるために必要な地位だというのに。
「なにせ公主はあの通り、お可愛い方だ。泣きながら耐えている姿もよかったが、私の要望に応えて上に乗ったときの腰つきなど、もう――」
「――貴様……!」
くっくっと喉を鳴らす楊闢の襟首を、両手で掴み上げる。
許せなかった。非が月龍にあることなどわかっている。わかった上でなお、あえて蓮を嬲り、辱めた行為を許容できるはずもなかった。
楊闢は、月龍の態度に驚きも怯えも見せない。薄ら笑いを貼りつけたまま、鼻を突き合わせた月龍を見返す。
「なんのつもりだ、邵殿。公主の努力を無駄にしたいか」
「――――っ」
公主もお可哀想に。皮肉に口を歪めた楊闢の言葉に、我に返る。
上官への暴力は、よくて降格、悪ければ死罪だ。約束通りに昇格してもその分下がれば意味はなく、まして死を賜っては元も子もない。
おそらく楊闢は勘付いているのだろう。月龍が蓮を道具と見ていないことを――想いをかけていることを。
その上で蓮を所望し、こうやってわざわざ月龍を煽りに来る。
なんという汚い男。なんと嗜虐的な男なのか。
この分では蓮にも、一体どのようなことをしたのか――させたのか、わかったものではない。
憎しみに、腹の中が煮えくり返る。けれど激情に流されるわけにはいかなかった。鋭く睨みつけたまま、楊闢の襟首から手を放す。
「――申し訳ございません。ご無礼、どうかお許しください」
以前であれば、後先考えずに殴り倒していただろう。心のどこかで、亮がなんとかしてくれる、と思っていたからだ。
だがこの件に関しては、亮の力を借りるわけにはいかない。事の経緯を知れば、楊闢と共に罰せられるのは疑いなかった。
否、仮に罪はもみ消してくれるかもしれない。同時に間違いなく、蓮を奪い返される。月龍にとっては、死罪よりも辛かった。
自分の力で、穏便に収めるしかない。
「そう、それでいい。貴官もわかってきたではないか」
頭を下げる月龍に、楊闢は満足げな笑い声を洩らす。
ぽんと肩を叩かれ、衣服越しでさえ鳥肌が立つほどの悍ましさを感じた。
蓮が覚えた苦痛は、これと比較にもならないのだろう。
嘔吐感にすら見舞われ、胃の辺りを強く掴む。立ち去る楊闢の後ろ姿が、邪悪な妖物にしか見えなかった。