第112話 伊尹
文字数 2,019文字
腕の中で眠る蓮の蒼白な顔を眺めて、月龍は深くため息を吐き出した。
楊闢の件から、二月近く経つ。収賄に慣れた男だ。汚い世界は汚いなりに道理があるらしく、約束が反故にされることはなかった。
昇進に難色を示していた高官たちに根回しをし、なんの功績も武勲も立てていない月龍を、なにやら理由をつけて
たかが一階級ではない。大きな前進だった。人事に関して権力と発言力のある楊闢だからこそできたこと。
残りは武勲を立てたときに上乗せしてやると、恩着せがましく言われたものだ。
この昇進を、亮が訝るのは当然だった。
楊闢の収賄癖を知らぬわけもなく、月龍からの贈賄を疑うのもまた、自然な流れだった。
予想されていたことだったのに、亮に呼び出された月龍は口ごもる。後ろ暗いだけではなく、返答を間違えれば蓮を奪われるのは目に見えていた。だから必死に頭を巡らせて、弁明する。
蓮との仲は、共に暮らすようになって公認された。王を始め、兄上である趙正にも認められた月龍に恩を売ろうと、楊闢が近づいてきたのだと。
月龍としても、地位が上がればその分早く蓮と結婚できる。悪い条件でもないので話に乗ったと説明た。
難しい顔で聞いていた亮が、ふむ、とひとつ唸る。楊と同じことを言っているなと呟くのを聞いて、ぞっとした。
やはり亮は、すでに楊闢から話を聞いていたのだ。
楊闢も、さすがに亮を相手に蓮を弄んだとは言えなかったのだろう。考えうる中で、もっとも理に適っているだろう弁明をしたに違いない。
まず先に楊闢を呼び出したのは、二人の話を比べるため。
後から楊闢に聞いたのでは、亮の様子から月龍の弁明を推測して合わせてくる可能性がある。月龍よりも話術が巧みな楊闢を警戒したのだろう。
ひとまずは、安心した。そもそも口裏を合わせておくべきだったとの反省はもちろんあるが、とりあえずは正解を口にできたのだから。
「気持ちはわからんでもないが、これ以上楊には関わらん方がいい。あれはまず優秀と言えるとはいえ、奸官の類いだ」
忠告に、心の底から同意する。嗜虐趣味と好色と、どちらをとっても親しくしたい人物ではなかった。
「――だがまぁ、蓮との結婚に近づけたのはよかったとするべきか。お前にはより早く、名実ともに蓮を娶ってもらわなければ困る」
難しい顔のまま呟く。
一応の和解はしているし、二人の仲を認めてくれてはいても、亮は蓮に恋慕しているはずだ。「一層のこと他人のものになった方が諦めもつく」などと感情的な話ではないのは、亮の性格を考えればわかる。
「なにか、急がなければならない理由でも?」
問いかけてみると、亮が意外そうに目を開く。
「驚いた。お前の割りに敏いではないか」
月龍のくせに、とでも言いたげな口調だった。
否定できる材料はなく、また愚鈍な自覚もあるから、面白くはないけれど反論はできない。口を噤んだまま、目で先を促す。
「お前も聞いていよう。
口調は淡々としていたが、声に似合わぬ愁いた表情だった。
伊尹というのは、御膳官である。権力も武力もない。
たしかに博識ではあったし、勇敢さも認めている。居並ぶ高官たちの中で、酒宴の席で伊尹ただひとりが王に諫言した逸話は有名だった。
だが、所詮はそれだけの男。亮が危惧するほどではない。
「それがどうした」
平然と返す月龍に、亮は嘆息する。
「すっこしは利口になったかと思ったが、勘違いか」
甚だ失礼な物言いではあるが、亮の見せる憂色の方が気にかかる。
「夏の破滅にまた一歩近づいたのだぞ」
「なにを大仰な」
「お前も噂くらいは知っているだろう。伊尹は妹喜と私通を重ねていた。気づいていないのは耄碌じじいくらいなものだ」
平然と父王をこき下ろす。たしかに王后と臣下の醜聞は面白いらしく、政治に疎い月龍でさえその話は聞き知っていた。
「最近では
それはそうだろう、とは月龍でも思う。他にも多く女を侍らせてはいても、妹喜への寵愛は続いていた。
そしてあの愚かな女は、王の勇名を地に落としても飽き足らずに、未だ搾取し続けている。王もまた、あの女の言いなりだった。
だから御膳官にすぎない伊尹が王近くに侍り、意見する機会にも恵まれた。
「莫迦女のことだ、政治向きの話も寝床でべらべら喋ったに違いない。その情報を持った伊尹が商に投降したのだぞ?」
王朝の情報が商に筒抜けになる。亮の言いたいことは理解できるが、納得はできない。
「だが
「そこだ」
はっ、と洩れた息は、失笑に似ていた。