第187話 麗しき兄弟愛
文字数 1,820文字
「――飛羐 様」
なんと呼びかけるべきか迷い、月龍が「朱公殿」と呼ぶのに習って、名を口にした。
「薛は滅びるべきです。子供の――子供達の人生を狂わせてまで家の虚名を優先させた、あの父がいる限り。私は薛の名を捨て、ここに来ました」
どちらが勝利しても薛の名と家柄によって蓮を守ってほしい。月龍の願いはそこにあるのだろう。
けれど家名を継ぐ気など、更々なかった。月龍と蒼龍の不幸は、薛家に生まれたことから始まっている。その源たる薛の名は、忌み嫌うべきものだった。
「――ふむ」
値踏みするような目つきで蒼龍を見ていた扁が、小さく唸る。
「たしかに『心あるご令息』のようだな」
薛を非難したことを、朝廷への阿りととることもせず、真摯さの表れと見てくれたのだろう。扁は鋭さを消した眼差しで、月龍と蒼龍を見比べる。
「しかし双子か。なるほど、顔だけでなく体格もよく似ている。ならば腕も立つのかと期待してしまうが、大丈夫か?」
「無論です。むしろ私以上かと」
「それは凄いな」
感嘆の目を向けられて、居心地の悪い気分になる。
月龍と蒼龍、本気で武を競ったことはない。一度目は月龍からあえて殴られた。二度めは拳を軽々とつかまえて見せたものの、月龍が油断していからに過ぎない。まともに戦えば、おそらくは互角程度だ。
蒼龍を売り込む目的なのはわかるが、必要以上に持ちあげられても困る。なにより、月龍が自身を卑下しているように見えて、辛い。
「まずは陛下に話を通してからにはなるが――私の隊に入ってもらい監視下に置く、という条件で打診してみるつもりだが、構わないか?」
「私は――」
「ありがとうございます。そのようにお願い致します」
配慮などしてもらえる立場にはない。蒼龍が辞退するよりも早く、月龍が頭を下げる。
「なに。私も貴官が抜けた穴をどう埋めようかと思っていたところだ。よい拾いものをした」
月龍と扁は、蒼龍を置き去りに話を進める。月龍への後ろめたさもあり、顔を潰すこともできず、蒼龍はただ黙って流れを受け入れるしかない。
「では閣下、朱公殿を頼みます。私はまだ準備がありますので、これで失礼致します。――蒼龍、またあとでな」
扁へと一礼し、蒼龍にも笑みを送ったあと、月龍は慌ただしく去って行った。
「蒼龍とは貴官の字か?」
後ろ姿を笑顔で見送り、扁が蒼龍へと問いかけてくる。
月龍が作り上げた「兄弟思いの男」という虚像と、薛を継ぐ気はないと宣言したことに実直さでも見出したのか。本来であれば胡散臭いはずの蒼龍に対して、扁は警戒心も見せずに対応している。
「邵殿は月龍だったな。字まで似るとは、偶然なことだ」
「偶然ではありません。私が真似たのです。父から与えられた名を捨て――彼のようになりたくて」
初めは当てつけのつもりだった。けれど本当は蓮が見抜いた通り、月龍に近づきたくて名を改めたのだろうと今では思っている。
ほう、と扁は驚くような、喜ぶような声を上げた。
「麗しき兄弟愛というわけだ。素晴らしい」
おそらく揶揄ではない。出会ったばかりでも、扁が好人物であることは窺えた。
「――しかし」
嬉し気に言っていた扁は、月龍が去って行った方向を見つめて、ふと眉をひそめる。
「貴官は、邵殿と知り合ったのは最近なのだろう?」
月龍が、身元が知れたのはつい最近だと言ったからそう思ったのだろう。実際にはそれほど短くはないけれど、矛盾を生じさせないためにも口を噤んだ方がよさそうだった。
「ならば知らぬだろうが、以前の邵殿は――なんというのか、もっと愛想のない口下手な男だった」
知ってはいるが、そう言うこともできない。沈黙を肯定とみなしたのか、扁は視線を遠くに投げかけたまま続ける。
「物腰も落ち着き、政に携わる者としては今の方が好ましいだろう。公主との結婚を意識して態度を改めたのだろうが――私は以前の、不器用な邵殿を気に入っていたから、少し寂しいような気がしてな」
言葉通り寂しげな顔を見せる扁に、答えることができなかった。
月龍が自己を捨てたのは、蓮のためというよりも蒼龍のせいだった。思うほどに、胃が痛む。
蒼龍が返す無言に気まずさでも覚えたのか、扁は照れ笑いのようなものを浮かべて「妙な話ではあるのだがな」と弁解じみて言う。
月龍を、月龍のまま受け入れてくれる人物がいた。彼はそのことに気づいていたのだろうか。
扁にぎこちなく微笑み返しながら、言い様のない虚しさを禁じ得なかった。
なんと呼びかけるべきか迷い、月龍が「朱公殿」と呼ぶのに習って、名を口にした。
「薛は滅びるべきです。子供の――子供達の人生を狂わせてまで家の虚名を優先させた、あの父がいる限り。私は薛の名を捨て、ここに来ました」
どちらが勝利しても薛の名と家柄によって蓮を守ってほしい。月龍の願いはそこにあるのだろう。
けれど家名を継ぐ気など、更々なかった。月龍と蒼龍の不幸は、薛家に生まれたことから始まっている。その源たる薛の名は、忌み嫌うべきものだった。
「――ふむ」
値踏みするような目つきで蒼龍を見ていた扁が、小さく唸る。
「たしかに『心あるご令息』のようだな」
薛を非難したことを、朝廷への阿りととることもせず、真摯さの表れと見てくれたのだろう。扁は鋭さを消した眼差しで、月龍と蒼龍を見比べる。
「しかし双子か。なるほど、顔だけでなく体格もよく似ている。ならば腕も立つのかと期待してしまうが、大丈夫か?」
「無論です。むしろ私以上かと」
「それは凄いな」
感嘆の目を向けられて、居心地の悪い気分になる。
月龍と蒼龍、本気で武を競ったことはない。一度目は月龍からあえて殴られた。二度めは拳を軽々とつかまえて見せたものの、月龍が油断していからに過ぎない。まともに戦えば、おそらくは互角程度だ。
蒼龍を売り込む目的なのはわかるが、必要以上に持ちあげられても困る。なにより、月龍が自身を卑下しているように見えて、辛い。
「まずは陛下に話を通してからにはなるが――私の隊に入ってもらい監視下に置く、という条件で打診してみるつもりだが、構わないか?」
「私は――」
「ありがとうございます。そのようにお願い致します」
配慮などしてもらえる立場にはない。蒼龍が辞退するよりも早く、月龍が頭を下げる。
「なに。私も貴官が抜けた穴をどう埋めようかと思っていたところだ。よい拾いものをした」
月龍と扁は、蒼龍を置き去りに話を進める。月龍への後ろめたさもあり、顔を潰すこともできず、蒼龍はただ黙って流れを受け入れるしかない。
「では閣下、朱公殿を頼みます。私はまだ準備がありますので、これで失礼致します。――蒼龍、またあとでな」
扁へと一礼し、蒼龍にも笑みを送ったあと、月龍は慌ただしく去って行った。
「蒼龍とは貴官の字か?」
後ろ姿を笑顔で見送り、扁が蒼龍へと問いかけてくる。
月龍が作り上げた「兄弟思いの男」という虚像と、薛を継ぐ気はないと宣言したことに実直さでも見出したのか。本来であれば胡散臭いはずの蒼龍に対して、扁は警戒心も見せずに対応している。
「邵殿は月龍だったな。字まで似るとは、偶然なことだ」
「偶然ではありません。私が真似たのです。父から与えられた名を捨て――彼のようになりたくて」
初めは当てつけのつもりだった。けれど本当は蓮が見抜いた通り、月龍に近づきたくて名を改めたのだろうと今では思っている。
ほう、と扁は驚くような、喜ぶような声を上げた。
「麗しき兄弟愛というわけだ。素晴らしい」
おそらく揶揄ではない。出会ったばかりでも、扁が好人物であることは窺えた。
「――しかし」
嬉し気に言っていた扁は、月龍が去って行った方向を見つめて、ふと眉をひそめる。
「貴官は、邵殿と知り合ったのは最近なのだろう?」
月龍が、身元が知れたのはつい最近だと言ったからそう思ったのだろう。実際にはそれほど短くはないけれど、矛盾を生じさせないためにも口を噤んだ方がよさそうだった。
「ならば知らぬだろうが、以前の邵殿は――なんというのか、もっと愛想のない口下手な男だった」
知ってはいるが、そう言うこともできない。沈黙を肯定とみなしたのか、扁は視線を遠くに投げかけたまま続ける。
「物腰も落ち着き、政に携わる者としては今の方が好ましいだろう。公主との結婚を意識して態度を改めたのだろうが――私は以前の、不器用な邵殿を気に入っていたから、少し寂しいような気がしてな」
言葉通り寂しげな顔を見せる扁に、答えることができなかった。
月龍が自己を捨てたのは、蓮のためというよりも蒼龍のせいだった。思うほどに、胃が痛む。
蒼龍が返す無言に気まずさでも覚えたのか、扁は照れ笑いのようなものを浮かべて「妙な話ではあるのだがな」と弁解じみて言う。
月龍を、月龍のまま受け入れてくれる人物がいた。彼はそのことに気づいていたのだろうか。
扁にぎこちなく微笑み返しながら、言い様のない虚しさを禁じ得なかった。