第144話 影
文字数 2,465文字
床に入り、蓮の肩を抱いて横になる。訝しく見上げてくる視線が、やけに気になった。
「――なにかあるのか」
何故もっと優しい言い方ができないのか。いつものことながら、自己嫌悪が湧く。
けれどこの態度に慣れきった蓮は、怖がる素振りも見せない。ただ暗い表情のままに俯いた。
「今夜は――なさらないのですか」
月龍が夜着に手を入れてこないのが不思議だったのか。
ただ寄り添って眠りたいだけというのは、それほどにおかしなことではないはずだ。なのに、と思うほどに腹が立つ。
いつもであればここで返事につまり、犯すか暴力を振るうか、どちらかだっただろう。だが今日は、言い訳がある。
「腹の子に障る」
「では――客間に」
行った方がよろしいですか。口にするよりも身を起こしかける蓮の肩を、強く抱いて引き留める。
「目を離したら、いつ堕胎しようとするかわからない。一人にさせるものか」
「もう、堕胎は考えていません」
「――信用できない」
本当は、信用できないのではなく心配なだけだった。蓮が自ら命を縮めようとしないか――否、体調不良によって苦しいのではないか、と。
傍に居て、なにができるというわけではない。それでもせめて、横にいたかった。
もっとも、そのようなことを口にしたところで信用などされないだろう。「産んでほしい理由」を捏造した以上、こちらの方が整合性も取れる。
伏せていた目を上げた蓮と、視線が絡んだ。その一瞬に耐えられなかったのは、月龍の方だった。蓮の瞳に浮かぶ感情を確かめるのが怖くて、彼女の頭を抱きしめる。
蓮は抵抗しない。腕の中から逃げ出すこともなく、そのまま眠りに落ちてくれた。
以降、徐々にではあるが二人の関係は変わりつつあった。
腹の子に障ると言えば、媾合せずにすむ。二人にとって今では忌まわしいだけだった行為から解放された。それだけで、まず心が少し軽くなった。
そうやって気が抜けたのだろうか。それとも妊娠によって強い怠さや眠気に襲われるのかもしれない。
あるとき、月龍の帰宅に気づかず、牀に半分横になるように座った蓮が、眠っていた。
穏やかな寝顔に、微笑ましい気分になる。起こさないように気をつけながら、そっと毛布をかけてやった。
注意をしていたのだけれど、気づかれてしまったらしい。身を起こそうとする蓮を、制止する。
「ゆっくりしていればいい。二人分の食事くらい、おれでも用意出来る」
乱れた毛布をかけ直してやる月龍に、蓮の目がはっと開かれる。驚きの中に喜色も混じっているように見えたのは、願望からくる錯覚か。
「けれど」
「腹の子に障る、幾度言わせる気か」
月龍の手を煩わせては怒られると思ったのだろうか。遠慮気味に発せられた声に、反射的に言い返す。
何故素直に、君の体が心配なのだと言えないのか。否、蓮にあえて誤解させるのだから、この言い方で正解だったはずだ。
それでも、申し訳ありませんと俯く横顔を見れば、せめてもう少し優しい物言いができたのではないかと考えてしまう。
そう考えるともう、我慢できなくなった。
「月龍、さま?」
座る蓮の前で膝を折る。ゆっくりと伸ばした手に、蓮がぴくりと反応した。
暴力を予想したのかもしれない。だとしたら柔らかな手つきで蓮の腹に触れたのは、さぞ不思議だっただろう。名を呼ぶ声には、戸惑いが表れていた。
「ここに、おれ達の子がいるのだな」
改めて確認するのに、意味などはない。ただ、そう口にするだけで実感が湧く。
「中から蹴ったりするというが――わかるか?」
「――え?」
今度は手に加えて、頬を腹部に寄せてみた。
とくんとくんと、衣服越しに蓮の鼓動が感じられる。温かさと柔らかさに、酔い痴れるように瞼を閉じた。
くすりと、笑い声が聞こえる。
「たぶん動いているとは思いますが、まだ感じ取れるほど大きな動きではありません。わかるようになるのはまだ、もう少し後になるかと」
お気の早い。降ってきた声は、いつもよりもやや軟化していた。
慌てて顔を上げるも、蓮の顔に笑みはない。ただ、ずっと貼りついていた濃い愁色もなかった。
腹部を撫でる蓮の優しい手つきに、胸が熱くなる。
蓮は、月龍の子を愛してくれている。月龍のことをどう思っていようと、どのような経緯で授かった命だとしても。
ならばこれから先も、寄り添って生きて行ける。共に暮らしていればいずれ、月龍を信じてくれる日が来るかもしれない。
――そう期待することは、決して無謀な望みではないはずだ。
その日から、蓮はもう無理をおして朝に起き出さなくなった。朝日の中に見る蓮の寝顔が、信頼が回復する兆しに思えて嬉しかった。
蓮の体調がいい日と月龍の休みがあったときには、外出もするようになった。安静にしているのも大事だが、ふさぎ込んでいるのも良くはない。気分転換になればと考えたのだ。
そう、何故もっと早くに気づかなかったのだろう。誰かに奪われるのが怖くて閉じ込めていたけれど、こうやって一緒にいれば逃げられる恐れもなく、蓮の気分も軽くなるのではないか。
逃げられない環境を作り上げることと、逃げたいと思う気持ちを折ることを平行で進めればいい。
さすがに馬も馬車も避けなければならなかった。そうなると行ける場所は限られてきて、もっぱら市場を巡ることとなる。
だがそれだけでも、充分に楽しめた。
今まで関心がなかったから気づかなかったけれど、子供用の品々も売られている。肌着用の柔らかい布地だとか玩具だとか、見かける度に足が止まった。
生まれる前からこうであれば、どれほど甘くなるのだろう。自嘲がこみ上げてきたとき、呆れを含んだ蓮の瞳に気づいた。
その唇には、わずかながら笑みが刻まれていた。
遠くない未来、蓮が微笑みかけてくれるようになるかもしれない。そう期待せずにはいられなかった。
幸せだった。また穏やかな時を過ごせるのだと思えば、高揚を隠せない。
――だから気づかなかったのだろう。距離を置いたところから自分達を凝視する目と、忍び寄ってくる新たな不幸の影に。
「――なにかあるのか」
何故もっと優しい言い方ができないのか。いつものことながら、自己嫌悪が湧く。
けれどこの態度に慣れきった蓮は、怖がる素振りも見せない。ただ暗い表情のままに俯いた。
「今夜は――なさらないのですか」
月龍が夜着に手を入れてこないのが不思議だったのか。
ただ寄り添って眠りたいだけというのは、それほどにおかしなことではないはずだ。なのに、と思うほどに腹が立つ。
いつもであればここで返事につまり、犯すか暴力を振るうか、どちらかだっただろう。だが今日は、言い訳がある。
「腹の子に障る」
「では――客間に」
行った方がよろしいですか。口にするよりも身を起こしかける蓮の肩を、強く抱いて引き留める。
「目を離したら、いつ堕胎しようとするかわからない。一人にさせるものか」
「もう、堕胎は考えていません」
「――信用できない」
本当は、信用できないのではなく心配なだけだった。蓮が自ら命を縮めようとしないか――否、体調不良によって苦しいのではないか、と。
傍に居て、なにができるというわけではない。それでもせめて、横にいたかった。
もっとも、そのようなことを口にしたところで信用などされないだろう。「産んでほしい理由」を捏造した以上、こちらの方が整合性も取れる。
伏せていた目を上げた蓮と、視線が絡んだ。その一瞬に耐えられなかったのは、月龍の方だった。蓮の瞳に浮かぶ感情を確かめるのが怖くて、彼女の頭を抱きしめる。
蓮は抵抗しない。腕の中から逃げ出すこともなく、そのまま眠りに落ちてくれた。
以降、徐々にではあるが二人の関係は変わりつつあった。
腹の子に障ると言えば、媾合せずにすむ。二人にとって今では忌まわしいだけだった行為から解放された。それだけで、まず心が少し軽くなった。
そうやって気が抜けたのだろうか。それとも妊娠によって強い怠さや眠気に襲われるのかもしれない。
あるとき、月龍の帰宅に気づかず、牀に半分横になるように座った蓮が、眠っていた。
穏やかな寝顔に、微笑ましい気分になる。起こさないように気をつけながら、そっと毛布をかけてやった。
注意をしていたのだけれど、気づかれてしまったらしい。身を起こそうとする蓮を、制止する。
「ゆっくりしていればいい。二人分の食事くらい、おれでも用意出来る」
乱れた毛布をかけ直してやる月龍に、蓮の目がはっと開かれる。驚きの中に喜色も混じっているように見えたのは、願望からくる錯覚か。
「けれど」
「腹の子に障る、幾度言わせる気か」
月龍の手を煩わせては怒られると思ったのだろうか。遠慮気味に発せられた声に、反射的に言い返す。
何故素直に、君の体が心配なのだと言えないのか。否、蓮にあえて誤解させるのだから、この言い方で正解だったはずだ。
それでも、申し訳ありませんと俯く横顔を見れば、せめてもう少し優しい物言いができたのではないかと考えてしまう。
そう考えるともう、我慢できなくなった。
「月龍、さま?」
座る蓮の前で膝を折る。ゆっくりと伸ばした手に、蓮がぴくりと反応した。
暴力を予想したのかもしれない。だとしたら柔らかな手つきで蓮の腹に触れたのは、さぞ不思議だっただろう。名を呼ぶ声には、戸惑いが表れていた。
「ここに、おれ達の子がいるのだな」
改めて確認するのに、意味などはない。ただ、そう口にするだけで実感が湧く。
「中から蹴ったりするというが――わかるか?」
「――え?」
今度は手に加えて、頬を腹部に寄せてみた。
とくんとくんと、衣服越しに蓮の鼓動が感じられる。温かさと柔らかさに、酔い痴れるように瞼を閉じた。
くすりと、笑い声が聞こえる。
「たぶん動いているとは思いますが、まだ感じ取れるほど大きな動きではありません。わかるようになるのはまだ、もう少し後になるかと」
お気の早い。降ってきた声は、いつもよりもやや軟化していた。
慌てて顔を上げるも、蓮の顔に笑みはない。ただ、ずっと貼りついていた濃い愁色もなかった。
腹部を撫でる蓮の優しい手つきに、胸が熱くなる。
蓮は、月龍の子を愛してくれている。月龍のことをどう思っていようと、どのような経緯で授かった命だとしても。
ならばこれから先も、寄り添って生きて行ける。共に暮らしていればいずれ、月龍を信じてくれる日が来るかもしれない。
――そう期待することは、決して無謀な望みではないはずだ。
その日から、蓮はもう無理をおして朝に起き出さなくなった。朝日の中に見る蓮の寝顔が、信頼が回復する兆しに思えて嬉しかった。
蓮の体調がいい日と月龍の休みがあったときには、外出もするようになった。安静にしているのも大事だが、ふさぎ込んでいるのも良くはない。気分転換になればと考えたのだ。
そう、何故もっと早くに気づかなかったのだろう。誰かに奪われるのが怖くて閉じ込めていたけれど、こうやって一緒にいれば逃げられる恐れもなく、蓮の気分も軽くなるのではないか。
逃げられない環境を作り上げることと、逃げたいと思う気持ちを折ることを平行で進めればいい。
さすがに馬も馬車も避けなければならなかった。そうなると行ける場所は限られてきて、もっぱら市場を巡ることとなる。
だがそれだけでも、充分に楽しめた。
今まで関心がなかったから気づかなかったけれど、子供用の品々も売られている。肌着用の柔らかい布地だとか玩具だとか、見かける度に足が止まった。
生まれる前からこうであれば、どれほど甘くなるのだろう。自嘲がこみ上げてきたとき、呆れを含んだ蓮の瞳に気づいた。
その唇には、わずかながら笑みが刻まれていた。
遠くない未来、蓮が微笑みかけてくれるようになるかもしれない。そう期待せずにはいられなかった。
幸せだった。また穏やかな時を過ごせるのだと思えば、高揚を隠せない。
――だから気づかなかったのだろう。距離を置いたところから自分達を凝視する目と、忍び寄ってくる新たな不幸の影に。