第91話 脅迫

文字数 1,875文字


 以前は、ほんのりと朱に染まっていた蓮の頬は、今ではただ青白い。
 日にも当たらず、なによりも心労が顔色に表れているのだろう。
 手を伸ばして、蓮の頬にそっと触れる。

「――約束を違えたな」

 劣情を抱きかねないからと、触れることさえ極力控えてきた。
 久しぶりの柔らかな感触は、感動よりも虚しさを助長する。

「言ったはずだ。二度と別れ話はするなと」

 自分は役に立たないから、二言目にはそう言う。本当に役立ちたいと思っているのならば、ただ笑いかけてくれるだけでいいのに。

「役に立ちたいと言ったな。ならば利用してやる」

 頬に当てていた手をそのまま後頭部に回し、髪を鷲掴みにする。

「――!」

 痛みと驚きと恐怖と。
 複雑に歪んだ表情を見たくなくて、目をそらす。髪を掴んだまま、引きずるように寝所へと向かった。
 臥牀の上に投げ捨てる。掴んでいた髪が切れ、あるいは抜けて、ぶつぶつと嫌な音を立てた。
 蓮の目に浮かんだ涙の理由は、痛みだけではないのだろう。頬を強張らせた顔が、感情を物語っていた。

 恐怖よりも強い、嫌悪。

「――いやっ」

 身を乗り出す月龍から逃れるため、臥牀の上を這う。捕まえるのは容易だった。四つん這いになった蓮の上に体重を乗せるだけで、支えきれずに倒れ込んだ。
 そのまま体で押さえ込み、乱暴に着物の裾をまくり上げ――ただ、犯す。
 上げられかけたのは、悲鳴か絶叫か。どちらも聞きたくなくて、蓮の顔を寝具に押しつける。苦痛と苦しさのためか、唸る声だけが月龍の耳に届いた。

負の感情を抱えているのは、蓮ばかりではない。月龍も、蓮への不信感を拭えなかった。
 嫌いなら――月龍を恐れるのなら、さっさと逃げ出せばいいのだ。そうすればこうやって汚されずにすむのに。
 傍に留まっては怯えの色を見せ、月龍の神経を逆撫でする。まるで嫌がらせでもしているかのようだ。
 もしかしたら、実際にそうなのかもしれない。嫌わせ、月龍の方から別れを切り出させようとしているのではないか。

 ――浅はかなことだ。蓮を手放すなど、ありえないのに。

 暴行を終えて、立ち上がる。不貞腐れてでもいるのか、蓮はうつ伏せで倒れたまま、身動ぎもしない。

「――近いうちに趙公とお会いしたい。時間をとって頂けるよう、取り計らってくれ」

 ぴくりと、蓮の肩が震える。
 怯えてでもいるのだろうか。ゆっくりと――おそるおそるといった様子で肩越しに振り返るも、表情を確認できるほどにはこちらを向いてもくれない。
 それでも、戸惑いの気配だけは充分に伝わってきた。

「――どうして、ですか?」

 質問がまた、神経を逆撫でる。不安げに震える声が、理由をまったく思いつかないことを示していた。
 何故、気づかないのか。眉間による皺を自覚する。

「恋仲の男が親族に会いたいと言っている。理由など、ひとつしかないだろう」

 身分が目当てだと思われたくないから、結婚にこだわるつもりはない。月龍は確かに、そう伝えていた。
 けれどもう、悠長なことは言っていられなくなった。このような愚行をくり返していては、いずれ蓮は訪ねて来なくなる。
 その前に、逃げられぬように縛りつけておかなければならない。結婚は、そのための手段でしかなかった。

 さすがに理解したらしく、蓮ははっと息を飲む。半身を起こして振り返った蓮の顔に浮かんでいたのは――絶望、だろうか。
 悟った瞬間、手を伸ばしていた。

「余計なことは言うな」

 半ばうつ伏せていた蓮の胸倉を掴み上げ、引き寄せる。

「反対されたら、趙公を殺す」

 低く発した脅し文句に、蓮の目が大きく見開かれた。
 瞳孔が開いている。左右に揺れる瞳から、輝きが失われていた。

「趙公だけではない。亮や嬋玉(センギョク)殿――婚姻が成らなければ、全員殺す」

 できるわけがない。一笑に付されかねない言葉だった。
 むしろ、ばかなことを言うなと笑ってほしかった。
 だが蓮は、露骨に顔色を変える。
 すなわち、信じたのだ。月龍ならばやりかねないと――蓮の中で月龍と言う男は、欲のためには殺人すら厭わないのだと思い知らされる。
 気取られてはならない。月龍にそれだけの度胸などないことを。

 ――蓮に捨てられるのを恐れているだけの、ただの小心者であることを。

「嫌ならば、認められるよう尽力することだ」
「――はい」

 引きつった口元が、小さく了承を口にする。
 その瞳に輝きが戻っていた。表面を覆う、涙によって。
 見ていられなくて、目をそらす。
 背けた横顔が冷酷に見えることは知っていた。さらに酷薄な男だとの印象を植えつけると理解していても、蓮の涙などもう、たくさんだった。
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登場人物紹介

月龍《ユエルン》

古代中国、夏王朝の武官。

武に関しては並ぶ者なきと評される腕前。

無愛想で人の機微に疎い。

有力な宦官の孫として養子に入る。出生に秘密あり。

蓮《レン》

王の姪。王子の従妹。

穏やかだけれど型破りなところのある、小柄な少女。

月龍との出会いで、人生が一変する。


亮《リーアン》

夏王朝の第一王位継承者。

蓮のいとこ、月龍の親友。

亮を出産時に母が死亡し、妃を溺愛していた父王からは仇のように嫌われている。

絶世を冠するほどの美青年。頭脳明晰。

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