第99話 誤算

文字数 1,121文字


 思った通り、仔猫の傷は浅いものだったらしい。五日も経った頃からそこらを歩き回っている。
 最初は自力で飲めなかった乳も、今では皿から飲めるようになった。
 かいがいしく世話をしてくれる蓮を母とでも勘違いしたか、えらくなついていて、ずっとあとをついて回っている。
 なつかれればやはり可愛いのだろう。世話をする手つきに、より愛しさが加わるようになった。仔猫を見つめる優しい眼差しを見れば、月龍も嬉しくなる。

 仔猫と接しているとき、蓮の空気は柔らかくなっていた。この分であれば、すぐにも笑顔が戻るに違いない。
 ぎこちない作り笑いではなく、あの暖かな微笑みを見られるのではないかと期待していた。

 そして、今日。月龍が帰宅したとき、蓮はいつもの(こしかけ)に座って、膝に仔猫を乗せていた。
 背を撫でる蓮の手にうっとりと目を細めている。みゃおみゃおと鳴く仔猫を見つめる蓮の口元にも、かすかな微笑が浮いていた。

「いい子ね、マオミィ。本当に、可愛い……」

 仔猫に語りかけている優しい声と表情に、月龍は心臓が激しく高鳴るのを感じていた。

 蓮が笑っていた。もう随分と見ていなかった穏やかな笑みに、舞い上がる。
 だが、ふと苦笑した。ようやく仔猫に名前をつけたらしいが――猫咪(マオミー)(ねこちゃん)とは。
 そのままではないかと呆れるのと同時、ひどく蓮らしい気もした。ついくすくすと笑いが洩れる。

 笑い声に気づいたのか。はっと振り向き、月龍の姿を認めた蓮が、仔猫を抱き上げながら立ち上がる。

「ごめんなさい、私、気づかなくて」

 慌てた仕草、上ずった声で言っているうちに、顔から笑みが消える。頬を強張らせて一礼すると、マオミィと名づけたらしい仔猫を、籠の簡易寝床に置いた。
 あたたかな膝から降ろされたせいか、マオミィが恨みがましい目つきで月龍を見ている――ような気がした。
マオミィの視線を頬で受け止め、月龍は蓮を睨む。

 蓮の表情や態度は軟化していた。しかしそれは、マオミィに対してのみだった。
 今浮かべていた笑顔も、月龍に対してのものではない。マオミィへの信愛だった。月龍には相変わらず、怯えた眼差しを向けている。

 それでも、以前よりはまだいいと思ってはいた。悲しげな様子は、明らかに減っている。
 しかし、マオミィが蓮を癒してくれると期待していたはずなのに、そのおこぼれが自分には回ってこないのを知ると、急激に嫌悪感を覚えるようになってきたのも事実だった。

 否、自分が誠心誠意を尽くしても否定されるのに、あっさりと蓮の心に入ってしまったマオミィに対して、言いようのない悔しさを感じる。
 猫に嫉妬とはばからしい。思う傍ら、蓮の膝の上に乗って背を撫でてもらっていたマオミィが、ふと羨ましくなった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

月龍《ユエルン》

古代中国、夏王朝の武官。

武に関しては並ぶ者なきと評される腕前。

無愛想で人の機微に疎い。

有力な宦官の孫として養子に入る。出生に秘密あり。

蓮《レン》

王の姪。王子の従妹。

穏やかだけれど型破りなところのある、小柄な少女。

月龍との出会いで、人生が一変する。


亮《リーアン》

夏王朝の第一王位継承者。

蓮のいとこ、月龍の親友。

亮を出産時に母が死亡し、妃を溺愛していた父王からは仇のように嫌われている。

絶世を冠するほどの美青年。頭脳明晰。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み