第115話 懐剣

文字数 759文字


 懐から覗いたのは、王太子亮の紋様が刻まれた剣の柄。門前を守る兵士はそれを確かめて、彼に一礼する。
 蓮公主がここを訪れるようになってから、幾度も繰り返されてきた儀式だった。
 今までとなんら変わったことはない。あるとすれば、いつもは暗い顔をしている主が、どこか晴れやかな表情をしていることくらいか。

 だがそれも、大した異変ではない。今日に限ったことではないからだ。
 疲れきり、険悪さすらにじませた顔をしていることが最も多いけれど、逆に憑かれたような笑みを見せる日もあった。

 元々、不安定な情緒の持ち主と聞いている。最近は政治情勢も厳しく、武官として立場ある彼が思い悩むのも無理はない。
 そのために引き起こされる発作のようなものだと思えば、納得できた。地位が高ければそれなりの苦労もあるのだろうと、気にも留めなかった。

「今日はもういい。帰って、休んでくれ」

 だが、門をくぐる前に発せられた言葉には、さすがに耳を疑った。それでは門番としての役目は果たせない。
 どう訴えたものか迷う兵士に、主たる男が小さく肩を竦めた。

「きょうはいいことがあってな。蓮と二人きりで祝いたい。――まぁ、邸の中では二人なのだが、外でお前たちが寝ずの番をしていると思うと、どうもな」

 なるほど、憔悴の色が見えないのはその「いいこと」のせいなのか。いつもより口数が多いのも、そのせいで浮かれているのだろう。
 不自然にも思える理由も、元々人が嫌いで寄せ付けない性質であったこの人ならばあり得た。

 なにより、護衛をしている自分よりも、主である月龍の方が確実に強いのだ。自分を含む他の衛兵たちも、月龍不在時の蓮を守るためのものである。
 月龍がいるのならば、彼自身はおろか蓮にも危険はないはずだった。
 敬礼で承諾を示すと、主は満足げに頷いて邸へと入って行った。
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登場人物紹介

月龍《ユエルン》

古代中国、夏王朝の武官。

武に関しては並ぶ者なきと評される腕前。

無愛想で人の機微に疎い。

有力な宦官の孫として養子に入る。出生に秘密あり。

蓮《レン》

王の姪。王子の従妹。

穏やかだけれど型破りなところのある、小柄な少女。

月龍との出会いで、人生が一変する。


亮《リーアン》

夏王朝の第一王位継承者。

蓮のいとこ、月龍の親友。

亮を出産時に母が死亡し、妃を溺愛していた父王からは仇のように嫌われている。

絶世を冠するほどの美青年。頭脳明晰。

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