第148話 帰途

文字数 1,215文字

 愕然と、そして慄然として睨みつける月龍の視線を軽く受け止めながら、ああいや、と蒼龍は笑う。

「蓮は優しいから、そこまでのことはしないか。だがああ見えて、鋭いところがある。女の本能とやらで、子の父親を察しているかもしれない」

 自分である可能性が高いと言いたいのか。怒鳴りつけたいのに、うまく口が開かず、喉の奥に声が貼りつく。

「たとえ双子の兄弟とはいえ、違う男の子供を知らずに育てさせられるとは哀れなものだ。それを嘲笑ってやるつもりだったとしたら、こうやって知らせてしまっては、蓮に悪いことをしたか」
「――うる、さい」
「ああ、それとも蓮は、やはりおれのことを一番に考えてくれているのかもしれないな」

 なんとか声らしきものを発する月龍を無視して、蒼龍はさらに続ける。

「おれの元々の望みは、あなたを廃して成り替わること。おれがあなたに成ったとき、より有利に働くよう、あなたの地位を高めておいてくれるつもりなのかもしれない」

 あえて逃げずに留まるのは、月龍のためではなく蒼龍を想うあまり、ということか。
 そのようなことはない、蓮はおれを愛してくれている――そう口にすることも、思うこともできない。ずっと蓮を虐げてきたというのに、思えるはずがなかった。
 蓮に憎まれている、その前提で考えれば、蒼龍が語る内容は信憑性が高い。

「おれのためにと尽力してくれる気持ちは嬉しいが、そのせいで、好きでもない男との生活を強いてしまうのは心苦しい――」
「黙れ!」

 これ以上、聞いていられなかった。立ち上がり、身を乗り出す。右手で胸倉を掴み上げて、左手を振り上げた。
 拳を、蒼龍の顔に叩きこむつもりだった。なのに易々と左手を掴まれ、蒼龍は涼しい顔で月龍を見返す。

「防がれたことが、意外か?」

 にやりと、目の前にある口元が歪む。

「前は、わざと殴られてやっただけだ。蓮の前だったからな。だがもう、彼女の同情を買う必要ない。もっと強い感情――愛情を得られたのだから」
「うるさい」
「ああ、殴られてやってもよかったな? 想い人を殴られたと知れば、蓮はよりあなたを恨むだろう」
「――うるさい」
「ほら、手は放してやる。殴ったらどうだ? もっと蓮に嫌われるために」

 言葉通り、左手は解放される。
 けれど再び、拳を振り上げる気にはなれなかった。たとえ蒼龍に打撃を加えたところで、気が晴れるわけもなく、ただより強い虚無感に襲われるだけなのは目に見えている。
 掴み上げていた胸元を押して、離れると同時に踵を返した。

「おれはここにいる」

 背中にかけられた声に、振り向くことはしない。声音と同じ余裕に満ちた表情など、見たくもなかった。

「いつでも会いに来るといい」

 まるで親しい相手にでもかけるような台詞は、月龍の神経を逆撫でるためのものだろう。
 答えもせず、振り返りもせず、だが蒼龍の意図通りに腸を煮えたぎらせながら、月龍は帰途につく。
 ――感情に任せ、足音を荒立たせながら、蓮の元へ。
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登場人物紹介

月龍《ユエルン》

古代中国、夏王朝の武官。

武に関しては並ぶ者なきと評される腕前。

無愛想で人の機微に疎い。

有力な宦官の孫として養子に入る。出生に秘密あり。

蓮《レン》

王の姪。王子の従妹。

穏やかだけれど型破りなところのある、小柄な少女。

月龍との出会いで、人生が一変する。


亮《リーアン》

夏王朝の第一王位継承者。

蓮のいとこ、月龍の親友。

亮を出産時に母が死亡し、妃を溺愛していた父王からは仇のように嫌われている。

絶世を冠するほどの美青年。頭脳明晰。

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