第175話 憎んで当然

文字数 1,163文字


「――生きている」

 安堵などという言葉で表現できるものではない。あの状況で月龍が蓮の命を奪っていたら、それは間接的に蒼龍が手を下したことになる。
 自分が蓮を殺したなどとは、冗談でも思いたくなかった。

 だが、生きていてくれた。苦しめたことに変わりはないが、それでも生きていてくれさえすればなんとでもなる。
 脱力する蒼龍を見て、月龍がわずかに口元を緩めた。

「やはりお前ならば任せられるか」

 口の中で呟かれたのは、理解不能なものだった。問い返そうとする蒼龍を遮るように、月龍が続ける。

「近々、蓮と結婚することが決まった」


 突然と言えば突然すぎる宣言だった。唖然とし、すぐに納得する。蓮との正式な結婚が、月龍の心に安定を与えたのだろう。だからこうして、落ち着いていられるのだ。
 二人はすでに誤解を解き、仲睦まじく暮らしているのだろう。
 頼みとやらも想像がついた。これ以上邪魔をするな、もう二度と姿を現さないでくれと念を押しに来たのだろう。
 ごねてやろうかとは思った。皮肉の一つや二つ言って、困らせてやろうかと。

 ――もう二人の邪魔をする気など、消え失せていたけれど。

「そこで、頼みだ」

 月龍が、穏やかな笑みのままに口を開く。

「蓮を――幸せにしてやってほしい」

 耳は月龍の言葉を受け止めていた。けれど意味を把握しかねて、呆然とする。
 蓮と結婚するのは月龍のはずなのに、幸せを蒼龍に託すとは、どう考えてもおかしな話だった。

「なにを言っている。蓮は――」
「蓮は、お前を愛している。亮からの求婚を断るほどにな」

 静かに告げる顔にはやはり、笑みが浮いている。

「本来であれば、おれが身を引くべきなのはわかっている。だがおれは、彼女なしでは生きて行けない。そこで慈悲に縋った。君の夫という名が欲しい、実を伴わなくていいから傍に居させてほしいと」

 結婚が決まった、と言っていた。ならば蓮は、その条件を呑んだのだろうか。
 慈悲を施したのではなく、蓮自身が月龍の傍を選んだということではないのか。

「代わりに約束した。戦地へと赴き、できるだけ早く武功を立てた後に死ぬことを」
「蓮があなたの死を望んだと?」

 あり得ない。あの蓮が誰かの、まして月龍の死を望むなどと。

「そうだ。なにせ彼女自ら、おれを殺そうとするほどに思いつめていた」
「――まさか」
「おれを懐剣で刺そうとした。死を望まずにやることではないだろう」

 唇には笑みを刻んだまま、わずかに眉が曇る。
 けれど表情の動きはそれだけだった。心情を読むことができない。
 それは蓮に関してもそうだ。月龍の死を望む、自ら手を下そうとするなど考えられない。どのような心の動きが、蓮を凶行に駆り立てたのか。

「無理もない。我が子を殺されれば、相手を憎んで当然だ」
「蓮の子が――死んだ――」

 もたらされた事実に、愕然とした。
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登場人物紹介

月龍《ユエルン》

古代中国、夏王朝の武官。

武に関しては並ぶ者なきと評される腕前。

無愛想で人の機微に疎い。

有力な宦官の孫として養子に入る。出生に秘密あり。

蓮《レン》

王の姪。王子の従妹。

穏やかだけれど型破りなところのある、小柄な少女。

月龍との出会いで、人生が一変する。


亮《リーアン》

夏王朝の第一王位継承者。

蓮のいとこ、月龍の親友。

亮を出産時に母が死亡し、妃を溺愛していた父王からは仇のように嫌われている。

絶世を冠するほどの美青年。頭脳明晰。

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