第211話 お願い
文字数 1,840文字
「――そう。あなたには優しいのね」
よかった。
小さく、口の中で呟かれる。
不思議な台詞だ。「あたなには」と言うけれど、寒梅から見て、月龍は公主にも優しく接している。むしろ寒梅などに対応するよりもずっと丁寧で、敬っているのは明らかだというのに。
「寒梅さんにお願いがあるの。――図々しいと思われてしまうかもしれないけれど、きいてくれますか?」
公主の立場なら「命令」にしてしまえば、有無を言わさず言うことをきかせられる。
どうしてこの人は、こうも遠慮がちなのだろう。月龍に対しては、ああも高圧的なのに。
「私にできることでしたら」
今朝までは、とても怖い公主だと思っていたけれど、今は弱々しい少女に見える。
美しい顔に、ほんのりと儚い微笑みを浮かべる様子は、同性でも見惚れるほどだ。
「あの方の、子供を産んであげてほしいの」
「えっ、それはどういう――」
「そのままの意味よ。あの方との間に子を儲けて――生まれた子を、私の養子にさせてほしくて」
「しかし――」
「もちろん、子を渡して去れ、なんてことは言いません。ここで一緒に暮らしましょう?」
「そのようなことはできません!」
「どうして? 一緒が嫌と言うなら、私が離れに移っても構わないわ」
「まさか、そのような――!」
「申し訳ないけど、対外的には身分のこともあるから私が妻、あなたが妾という立場で振る舞うことになるとは思いますが、家の中ではあなたが主となった方がうまくいくかもしれません」
「公主!」
寒梅に反論させないためだろうか。矢継ぎ早に語る公主の名を呼んで、強引に遮る。
すると、公主は小さく頭を振った。
「蓮」
「――え?」
「私の名前、蓮というの。公主なんて地位ではなく、名前で呼んでくれると嬉しいのだけど」
いけませんか? 少し眉を歪めた、心配げな表情で言われる。
名前で呼んでほしい、とは月龍にも言われたことだ。この夫婦は何処か、根っこの部分が似てでもいるのだろうか。
「――蓮様」
「はい」
月龍のときにはもっと抵抗感があったけれど、あれで慣れたのか、意外とすんなり呼ぶことができた。
蓮は想像通りの優しい顔で頷く。
「その――月龍様は、そのようなことは望んでいらっしゃらないと思います」
毎晩訪ねてきては、蓮の様子を訊ねて行く月龍。寒梅には一切の関心を示さない。
あの月龍が他の女に手をつけるとは思えなかった。まして他の女の子供を望むとは思えない。
――あるいはそれが蓮の希望だと聞かされれば違うのだろうか。
「けれどあの方は地位のある武官です。子を残さなくてはならないでしょう?」
「そうだとしても――私などではなく、蓮様のお子の方が喜ばれるはずです」
差し出がましいのは重々承知の上だ。それでも、言わなければならないと思った。
悲しげに眉を歪ませている、この弱々しい少女を守りたいと。
二人が一緒に居るときには、蓮は月龍を嫌っているように見えた。だがこうして話しているのを見れば、終始思いやっているようにしか思えない。
でなければ公主の身分にある妻が、矜持を捨ててまで下女に夫の子を産んでくれ、などと頼むはずがなかった。
「――私が流産したのはご存知ですか?」
寒梅を見つめていた蓮が、辛そうに軽く目を伏せる。長い睫毛が、頬に影を作っていた。
愁う顔でさえ、見惚れるほどに美しい。
「そのことが原因で、私は子を産めない体になりました」
淡々と、辛いはずのことを告げる。それとも悲しみの感情を抑えようとするから、淡々とした印象になるのだろうか。
息を飲み、一瞬言葉を失う。
事実なら、「代わりに産んでほしい」というのも頷ける気がした。心境の複雑さも、わかる。
けれど、蓮にとっては辛いことかもしれないが、確認しなければならないことがあった。
「それは、お医者様が仰ったのですか?」
流産し、体が傷ついたからもう子供は産めない。医者が見立てたのならばそうかもしれないが、蓮の思いこみの可能性もあるのではないか。
たとえば蓮の望み通り、寒梅が月龍の子を産んだとする。だが後に不妊が誤りで、蓮が懐妊したらどうなるのか。
養子よりも実子の方が可愛いに決まっている。優し気な蓮であれば、養子だからと邪険にすることはなくても、差はつけられるのではないか。
否、実子ができれば変わってしまうかもしれない。
どちらにせよ、そうなった場合寒梅の存在は厄介者でしかなくなる。せっかく手に入れたこの優良な雇先を失う羽目になるくらいなら、ずっと下女のままでいた方がいい。