第107話 酒席
文字数 1,555文字
楊闢の邸ではすでに、歓待の用意がなされていた。
蓮がやってくると疑わないからこその対応だった。そう確信させるだけの態度を月龍がとっていたのだろう。思うほどに、渋面を自覚する。
通されたのは、宴会用に広間ではなく、楊闢の私室だった。
月龍の部屋とは比べ物にならない広さと豪華さだった。これだけ広ければ、給仕を含めても貴人二人が飲むのに体裁は整う。
勧められた席からは、奥の間が見えた。仕切る幕をわざわざ開けているのは、そこにある臥牀を見せるため――そこで行われることを暗示して、蓮の反応を楽しんでいるのだ。
「どうなされた、公主」
唇をかみしめて俯く蓮に、にやにやと薄笑いを貼りつけた楊闢が声をかけてくる。
「顔色がお悪いようだが――ご気分が優れないのでしたら、横になられてはいかがか」
「大丈夫です」
楊闢の目がちらりと臥牀へ向けられたのを知り、強張らせた頬で慌てて頭を振る。
「ならばいいのですが――ではまず、どうぞ、公主もご一献……」
「いえ、お酒はあまり得意ではありませんので」
嘘だった。月龍ほどではないけれど、酒には強い方である。正体不明に陥ったこともなければ、酔い潰れたこともない。
かえって気がまぎれるかと思わないでもなかったけれど、楊闢の前で、わずかでも隙に繋がるようなことは避けたかった。
蓮の浅はかな考えを読んだのだろう。楊闢が片眉を上げて笑う。まぁ好きにしろとでも言いたげな、嘲笑だった。
そのとき楊闢が、蓮の足先から頭までも、舐めるような視線で見やる。値踏みするような好色な眼差しに、ぞくりと寒気が走った。
大丈夫。自分に言い聞かせるように考える。
月龍はきっと今頃、後悔している。前言を撤回するために、こちらに向かっている――きっと助けに来てくれるはずだと。
そう信じたかった。月龍が辛く当たるのも、愛あるが故のこと。今回の件も、ほんの一時出世欲に目が眩んでしまっただけで、本心ではないのだと。
けれど、思い出せば胸が痛くなる。
気持ちを信じたかったからこそ、あえて仕度に月龍の手を借りた。そうすれば目を覚ましてくれるかもしれない、冷静になって、あのような男の元へは行くなと言ってくれるのではないかと期待した。
だが、無理はしなくてもいいというだけで、引き留めてもくれなかった。
否、嫌ならば逃げても構わないと言ったけれど、あれはむしろ退路を断つためだったのではないかとさえ思える。
蓮がもし本当に逃げ帰ればきっと、責任を追及される。結果的に逃げられるわけはないのだからおとなしく従え、という念押しだったのではないか。
絶望に傾きかけた頭を振る。きっと今に助けに来てくれると思いこもうとした。
頬が強張る。無理に笑って見せながら、楊闢の早さに合わせて酌を続けた。
助けが来るまでは、楊闢の機嫌を損ねてはならない。精々気に入られるように、愛嬌よく接しなければならなかった。
「もう結構」
酒席が始まって、経ったのはまだ四半刻くらいだろうか。楊闢が、やんわりと断って盃を卓に置く。
「けれど、まだわずかしか召し上がっていないかと――」
「残念ながら、私もあまり酒は得意ではないのですよ」
助けに来てもらえるまで、できるだけ時を稼ぎたい。蓮の思惑を見透かしてでもいるのか、楊闢は笑みを刻む。
「それに、あまり酔いが過ぎると楽しみも半減する」
語尾の含み笑いに、怖気が走る。蓮は咄嗟に、腰を浮かせた。
「楊様! 楽師の方を呼んで下さいませんか? 私は舞もできるので、是非お目にかけたく――」
「往生際が悪いぞ、公主」
蓮を追って席を立った楊闢に、手首を掴まれる。
それが合図となったかのようだった。給仕などの家人たちも、さっと立ち上がる。ある者はそそくさと、またある者は蓮を憐れむ眼差しと会釈のを残して退室した。