第88話 必要

文字数 1,728文字

 涙を拭い衣服を整えた蓮は、床にかがみこんで払い落された料理と陶器の破片を、無言のまま片づけ始める。

「――すまない」

 顔が歪むのを自覚した。呟く声に顔を上げた蓮は、月龍の沈痛な表情を確認したはずだ。しかし感銘を受けた風もなく、再び床に視線を落とす。

「このようなつもりではなかった。昨夜のことを謝って――許して欲しいと、傍に居てほしいと、頼むつもりだった」

 月龍の声は届いているのだろうか。蓮はもう、顔も上げない。

「別れ話などされて――君が、いなくなってしまうかと思うと我を見失った。傷つけるつもりはなかった。暴力を振るうつもりなど、なかった」

 許してくれ。自分の耳にも、声が震えているのがわかった。
 それでも蓮は、振り返りもしない。俯いた横顔が拒絶を如実に物語っているようで――とうとう、堪えきれなくなった。
 蓮の正面でがっくりと膝を落とし、両手で顔を覆う。

「――どうしたらいいの」

 月龍の異変を察したのだろうか。それでもこちらに顔を向けぬまま、蓮がぽつりと呟く。

「あなたは私に、なにを望んでいるの? 私がどのようにすれば――あなたの気に入るの?」

 蓮がどのように振る舞えば嬉しいのか。考えるまでもない質問だった。

「笑ってくれ」

 蓮の肩を抱き寄せる。乱暴にならぬよう、細心の注意を払って優しく抱きしめた。
 ――それでも、蓮の体は硬直していたけれど。

「君の泣き顔はもう、見たくない。見たいのは、君の笑顔だ」

 花すら霞むあの柔らかな微笑みがあれば、月龍は幸せになれる。逆を言えば、蓮なしでは幸せなどあり得ない。

「――もう二度と、別れるなどと言わないでくれ。言われても、別れてなどやれない」

 月龍の嘆願にも、心を動かされた様子はなかった。
 当然だ、暴行の直後なのだから。むしろ、「別れてなどやらぬ」という宣言を、「逃がさない」とでも受け止めたのではないか。身が竦んだのはおそらく、恐怖のためだろう。

「私は――必要ですか?」

 抱きしめて、頬が接した状態では、蓮の表情は確かめられなかった。ただ声だけでも、悄然としているのがわかる。
 ――蓮は何故、このようなわかりきった質問をするのだろう。

「必要だ」

 何度言わせれば気がすむのだろう。それほどまでに月龍の言葉は信用ならないのか。

「君を手放すつもりは、毛頭ない」

 もし月龍が蓮から離れることがあるのなら、それは命を落としたときだけだ。蓮を失って生きていけるはずなどないのだから。

「――わかりました」

 沈黙を破ったのは、静かに告げる蓮の声だった。

「傍に居ます。あなたの、お役に立てる限りは」

 役に立つ、立たないの話ではない。蓮だからこそ必要だと言っているのに。
 けれど一安心ではあった。月龍が蓮を必要としない日など、来るはずがない。ずっと一緒にいると約束してくれたに等しかった。
 無論、手放しで喜べる状況ではない。とりあえず共に居られるのだから、信じてもらえるように努力するだけだった。

 ――それでも、やはり辛い。月龍を恐れ、媚びるための笑みで迎える蓮の姿を目にするたび、心臓がきりきりと痛む。
 見たいと言ったのは、幸せそうな笑顔だ。媚びるために作られた悲しげな笑みになど、用はない。

 体を重ねるつもりもなかった。なのに蓮は、訪ねて来ては誘うのだ。食事をして、その後当然のように寝所へ向かう。
 そのようなことは必要ない、君と会えるだけで充分だ――何度も繰り返し伝えているのに、蓮は一向に信じようとしない。不思議そうな顔で見上げ、挙句すぐに帰ろうとする。
 なんとか引き留めても会話はない。月龍は元から口数は多くないし、話しかけてくれていた蓮が口を噤むのだから当然の成り行きだ。

 無理もない話だとは思う。以前のように亮や嬋玉、それ以外の外出もしていない。自宅と月龍の元を往復するだけなのだから、話題があるはずもなかった。
 月龍も、努力はしたのだ。蓮が話さないのならば月龍が口を開けばいい。
 だが月龍とて状況は同じだ。訓練と自宅、あとは蓮を送って帰るだけ。
 途中蓮のためにと市場にも行くが、渡した贈り物に関心を示してもらえなければ会話は広がらない。

 またあの、気まずいだけの時間が流れるのか。
 護衛の立つ門を過ぎて、嘆息する。
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登場人物紹介

月龍《ユエルン》

古代中国、夏王朝の武官。

武に関しては並ぶ者なきと評される腕前。

無愛想で人の機微に疎い。

有力な宦官の孫として養子に入る。出生に秘密あり。

蓮《レン》

王の姪。王子の従妹。

穏やかだけれど型破りなところのある、小柄な少女。

月龍との出会いで、人生が一変する。


亮《リーアン》

夏王朝の第一王位継承者。

蓮のいとこ、月龍の親友。

亮を出産時に母が死亡し、妃を溺愛していた父王からは仇のように嫌われている。

絶世を冠するほどの美青年。頭脳明晰。

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