第106話 髪留め

文字数 1,274文字


 その日の夜は、眠れるはずもなかった。ただなにもせず、蓮を抱きしめて眠ったふりをする。
 蓮も抜け出そうとはせず、腕の中におとなしく収まってくれた。

 ぬくもりが、胸に痛い。
 蓮は一体、どのようなつもりなのか。本当に行く気なのだろうか。
 翌朝、出立のときにも訊ねた。「嫌ならば行く必要はない。それでも楊様を訪ねる気か」と。
 眉尻を下げて笑みを作った蓮に見送られ、楊闢と会う。促され、了承の旨を伝えたときの驚きに瞠った目が印象的だった。
 受託されるわけがないとでも思っていたのか。すぐに薄笑いが滲んだところが楊闢なのだろう。
 それでも「蓮の気が変わるかもしれない」などと確約を避けたのは、月龍の願望の表れだった。

 ――そう、やめてほしい。ただ縋って甘えてほしいだけだった。本気で、蓮を他の男に渡したいはずがない。

「先日の髪飾りは、まだお持ちですか?」

 帰った月龍を、いつもの笑顔で出迎えた蓮に尋ねられる。

「紅榴石の? 持っているが――」
「よろしければ、貸して頂けますか?」

 月龍を見上げての質問なのに、目が合わない。視線が少し、下に向けられていた。

「――それと、できれば髪結いもお願いしたくて」

 申し出は、楊闢の元へと行く前提のものだった。

 蓮が髪を結い上げずにいるのは、亮に合わせたものかと思っていたが違った。家事などはうまくこなせるのに、髪結いが下手なのだ。
 趙靖の邸にいるときは侍女もいたが、わざわざ手を煩わせるほどでもないからと、公の場に出る以外は下したままにしていたらしい。

 いずれ共に生活するようになれば、普段はともかく、公で髪を結う機会には月龍が手を貸すことになるだろう。結婚後も従者を入れるつもりのなかった月龍は、気の早い話ではあるが準備をしていた。

 男と女では結い方も違う。また蓮の髪は柔らかく、自分の髪を結うようにはいかなかった。
 そこで髪質の似た亮に頼みこんで、練習させてもらっていたのだ。
 散々練習したので、今では蓮よりはよほどうまくできる。

 ――だがそれは、他の男に会う支度をしてやるためではない。

 先日の髪留めも、貸してくれと言われたがそもそも蓮のものだった。蓮に喜んでほしいがための贈り物だったのに。
 心痛を覚えながらも、表情に乏しい月龍の顔にはなにも表れてはいなかった。おそらくは淡々と見える顔、手つきで蓮の髪を結い上げ、髪飾りもさす。
 思った通り、蓮の髪によく映えた。それだけに物悲しい。

「――では、行って参ります」
「蓮」

 軽い会釈で出て行こうとする蓮を、思わず引き留めた。怪訝そうに振り返った蓮に言うべき言葉を見出せず、口ごもる。

「すぐに逃げてきてもいい。途中で引き返してもかまわない。――わかったな」

 本当はこのまま、掴まえて離すべきではない。わかっているのに何故、真情を吐露することができないのだろう。
 躊躇いに揺れる月龍を見上げて――蓮は愁いた眉で笑う。

「大丈夫です。きっとあなたの役に立つよう、振る舞って参ります」

 作られた儚い笑みに、返す言葉はない。
 会釈を残して馬車に乗り込む後ろ姿を、ただ黙って見送った。
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登場人物紹介

月龍《ユエルン》

古代中国、夏王朝の武官。

武に関しては並ぶ者なきと評される腕前。

無愛想で人の機微に疎い。

有力な宦官の孫として養子に入る。出生に秘密あり。

蓮《レン》

王の姪。王子の従妹。

穏やかだけれど型破りなところのある、小柄な少女。

月龍との出会いで、人生が一変する。


亮《リーアン》

夏王朝の第一王位継承者。

蓮のいとこ、月龍の親友。

亮を出産時に母が死亡し、妃を溺愛していた父王からは仇のように嫌われている。

絶世を冠するほどの美青年。頭脳明晰。

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