第69話 凌辱

文字数 1,406文字


 上体を起こして衣服を整え、乱れた髪を手で撫でつける。
 ちらりと視線を向けた先では、蓮がゆっくりと体を起こしているところだった。酷く緩慢な動作。月龍の手で引きちぎられた衣服をかき集めて胸に抱き、俯いた唇から静かで長いため息が溢れ出した。
 目に涙を溜めた横顔と仕草は、以前頭の中に描いてしまった光景と酷似していた。蒼龍に害されてはいないか、蓮は無事でいるだろうかと心配したときに浮かんだ、忌避すべき妄想。

 まさか、命に代えても守りたいと思っていた自分が、蓮を蹂躙しようとは。

 ――今日は蓮を抱いたのではない。力と言葉で脅しつけ、無理に奪い取ったのだ。
 否、おそらくは今日だけではない。蓮の心情としては今までもずっと、同じだったのだろう。

「――もう、抱かない」

 抱けるはずがない。耐えがたい熱を訴えてくる目頭を、抑える。

「えっ……」

 一方的な宣言に、蓮は怯えの色を滲ませて振り返った。

「ごめんなさい。私、なにか気に障ることを? 直します、だから――」
「違う」

 傍に置いてほしいと続けようとしたのか。蓮を遮って、嘆息する。「抱かない」の言葉が、蓮の耳には別れ話に聞こえたのだと思うと、胸が締めつけられる。

「おれがほしいのは、君の心だ」

 たった今蓮を強姦しておいて、白々しいにも程がある。
 信じてもらえるはずがない。わかっているからこそ、続けなければならなかった。

「体ではない。身分でもない。まして亮の身代わりでなどあるはずもない。おれがほしいのは、蓮だけだ」

 深く蓮を抱きしめながら、そっと語りかける。彼女の耳に、できるだけ優しく響くように。
 信じられないというのならば、籍を入れなくてもいい。体や亮の身代わりを望んでいるのではないことは、抱かなければ証明できるはずだ。

 それでも傍を離れず、慈しみ続けていればいずれ、気持ちは伝わる。きっといつかは、わかってくれる。

「だから――もう二度と、亮に体を許したりしないでくれ」

 もしまたそのようなことになったら、理性を保てる自信はない。蓮に対しても――亮に対しても。

「ああ……そう、ですわね」

 蓮の手が、月龍の背に回される。抱きしめ返してくれたのだろうか。甘いことに、期待を抱かずにはいられなかった。

「私が、浅はかでした」

 ごめんなさいと続けられて、心臓が疼く。
 先程の今だ。月龍の気持ちを、完全に理解してくれたわけではないだろう。
 けれど、ほんの少しはわかってくれたのではないか。蓮が他の男に触れられたことが、腸が煮えくり返るほどの怒りを誘ったことを――誰にも触れさせたくない、気持ちを。

「あなたは亮さまに触れられないのに――嫉妬を買って、当然でした。申し訳ありません」

 何故そうなるのか。浮かんだ期待は、見事に打ち砕かれた。
 月龍は決して、亮に抱かれた蓮に嫉妬したのではない。蓮を抱いた亮に対して、憤ったのだ。

「違う」

 言葉が出てこない。ただ小さく、違うとくり返す。
 他に出てきたのは、堪えきれなくなった嗚咽だけだった。

「月龍……?」

 月龍が泣いているのが不思議なのか。名を呼ぶ声は、訝しげなものだった。

「好きだ、蓮。ずっと傍にいてくれ――離れないでくれ」

 蓮と月龍は決して、対等ではない。蓮の気分次第で、いつでも仲は切れてしまう。
 月龍にできるのはただ、懇願することだけだった。

 ――否、あと一つ、するべきことがある。

 蓮を抱く腕に、我知らず力がこもるのを感じていた。
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登場人物紹介

月龍《ユエルン》

古代中国、夏王朝の武官。

武に関しては並ぶ者なきと評される腕前。

無愛想で人の機微に疎い。

有力な宦官の孫として養子に入る。出生に秘密あり。

蓮《レン》

王の姪。王子の従妹。

穏やかだけれど型破りなところのある、小柄な少女。

月龍との出会いで、人生が一変する。


亮《リーアン》

夏王朝の第一王位継承者。

蓮のいとこ、月龍の親友。

亮を出産時に母が死亡し、妃を溺愛していた父王からは仇のように嫌われている。

絶世を冠するほどの美青年。頭脳明晰。

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