第44話 蓄積
文字数 2,913文字
邸は静まり返っていた。
本来は厩に停めるべきだが、その間すら惜しい。門のすぐ隣に立つ木に、手綱を乱雑にかけた。
一歩ずつ歩みを進める度に、嫌な汗が滲む。馬を駆ってきたせいばかりではなく、わずかに息も切れた。
広い邸ではないのに、蓮の待つ母屋まですら遠く感じられる。前庭を抜け、ようやくたどり着いた。
「おかえりなさい、月龍」
出迎えてくれた蓮の笑顔は、いつもと変わらないものだった。
まずは、彼女が無事であったことに安堵した。
次に、周囲の様子を探る。人の気配は感じられず、さらに安堵は増した。
そして最後に、怒りが湧く。
「――何故だ」
蓮に、乱暴するわけにはいかない。思うのに、つめより、彼女の両肩を掴む手には必要以上の力が入ってしまう。
「あの男は危険だと言っておいたはずだ。何故偽ってまで――従者を騙してまで、招き入れた」
「――ごめんなさい」
蓮が痛みに眉を歪めたのは、一瞬だった。詫びる声に、ため息が重なる。
視線を横へと流し、軽く伏せた目を縁取る睫毛が、震えていた。
言いつけを守らなかったことに後ろめたさがあるのか、それとも怖いのだろうか。
なにを今更、と思う。蓮は決して莫迦ではない。蒼龍を通せば、月龍の怒りを買うことくらいわかっていたはずだ。
それを押してもなお、蒼龍に会いたかったということだ。
「でも、どうしても話したかったの」
遠慮がちに、それでもはっきりと告げられた言葉は、月龍の想像を裏づけるものだった。
「――あの男と、か」
声が低くなるのを、自覚していた。鼓動を打つ度、心臓が痛みを訴えてくる。
月龍の苦痛も知らず、蓮は首肯した。
「あなたがそうやって、蒼龍を不審に思っていること――だからもう、今までのように会えなくなると、伝えたかったの」
「必要ない。拒絶を続けていれば、態度で知れる」
「でも、蒼龍はあなたとの和解を希望しています」
訴えかけるように顔を上げた蓮の双眸が、潤んでいた。おそらくは、蒼龍の心情に心を寄せるが故に、だ。
「あなたはきっと、誤解しています。蒼龍はあなたが思うような、悪い人ではありません。だって、あなたに近づきたいあまり
蓮の口から、蒼龍をかばう言葉がつらつらと溢れてくる。
「――そうやって、すぐにほだされる」
吐き出した呟きは、憎々し気な響きとなった。
「だから会うなと、おれも――亮も、言っているのに」
蓮の優しさは、美徳だ。純粋さも、善性の表れだろう。
だが同時に、蒼龍のような悪辣な男を相手にする場合は、欠点となる。
「あの男の目的は、おれを蹴落とすことだ。はっきりとそう告げたのだからな」
「それは――」
「君にあえて聞かせぬように口にした。お前は偽者だ、などと、悪意以外から発せられると思うか?」
「でも――それでも、どうしてもあの人が悪い人には思えないの」
理屈ではなく感情が、ということだろうか。
もう一人の月龍だと思えば、嫌う理由はない。先日蓮は、その類のことを口走っていた。
根底にあるのが自分への想いだとわかり、安堵したのは事実だ。
けれど、本当にそれだけだろうか。蒼龍自身への傾倒こそが、信頼につながっているのではないか。
いずれは、信頼だけにとどまらず――
「――おれとあの男、どちらを信じる」
数日前と、ほぼ同じやり取りだった。
どちらを選ぶと問い質した月龍に、蓮は泣いた。質問の非道さを悲しげに責め、想いを告白してくれた。
あのときは安堵したけれど、蓮は問いかけに答えていなかったことを、ようやく思い出したのだ。
「どちらだなんて――選ぶような問題ではありません」
歪んだ眉の下、大きな瞳が涙に濡れて、輝いていた。
「あなたを信じています。でも、蒼龍が嘘を言っているとも思えない」
素直な言葉だった。
以前、月龍と亮どちらが大切かと問うたときにも、選べないと蓮は答えた。
真実だろうとは思う。必ずしも一方のみを信じなければならないわけではない。蓮の発言に、おそらく矛盾はない。
けれど、腹は立つ。「でも」の後を口にしなければ、月龍も少しは安心できただろう。蓮はいつも、愚直なまでに真実を口にする。
――その蓮が、偽りを述べてまで蒼龍を招き入れた。
嘘で月龍を安心させてくれることもないのに――月龍のためではつけない嘘を、蒼龍のためには口にする。
それが、答えではないのか。
「――もう、いい」
決して諦めたわけでもないのに、気がつくと排他的な呟きが洩れていた。
びくりと、蓮の身が竦む。涙で潤んだ瞳から目をそらし、月龍は顔を背けた。
「亮が、正式におれと君の縁談を進めてくれていたが、無駄になったな」
遠回しに、破局を告げる。
もっとも、本当に別れるつもりは毛頭なかった。どうせ蓮が、引き留めてくれる。蓮にとって月龍は、唯一無二ではなくとも、離れ難い存在であることは疑いない。
蓮の想いが自分に向いているのは知っていた。
ただ、誰よりも優先してほしい――他の誰にも、その優しさを向けてほしくない身勝手さの表れだった。
もし蓮が別れを承諾したら。
一抹の不安はある。もしそうなればきっと、月龍は取り乱し、彼女にすがりつくだろう。
「私と、別れたい……?」
蓮が、小さな拳を震わせている。俯いているから顔は見えないけれど、ポタリと落ちた滴が床に染みとなって広がった。
ほら、こうして悲しんでくれる。
安堵と同時に、強い満足感を覚えていた。
けれどあえて、無言を貫く。そうすれば、より蓮は想いを語ってくれる。
こうやって確かめることが、ある種快感になっていた。
「私が、いつも怒らせてしまうから? だから、嫌になってしまうの?」
顔を上げ、はらはらと落涙する蓮に、ようやく視線を向ける。
涙が、言葉以上の証明だった。頬が緩みそうになるのを、堪える。
「――でも、わからないの。どうすれば怒らせずに済むのか――あなたの気に入るのか」
遠慮がちに月龍の袖を引く、か弱い力に胸が詰まる。
憐れんだわけではない。共感でも、同情でもない。
月龍の胸を震わせたのは、歓喜だった。
愛されている実感に、堪えきれなくなった笑みが洩れる。
「ならば、おれを信じてくれ」
涙に濡れる蓮の頬を、そっと指先で拭う。驚いたのだろうか、睫毛がピクリと、一瞬震えた。
琥珀色の瞳が、涙で輝きを増している。真っ直ぐに見つめてくる双眸は、月龍の目には宝玉よりも眩しかった。
「蒼龍だけではなく、他にもおれ達の仲を引き裂こうとする者がいるかもしれない。だからおれを――おれだけを、信じてほしい」
「あなた、だけを……」
「そう。蒼龍ではなく、亮でもなく――おれの、言葉だけを」
頭の中で反芻しているのだろうか。大きな瞳が小さく揺れて、やがて、蓮はゆっくりと頷いた。
愛している、そう口にする代わりに、そっと唇を寄せる。このあと肌を合わせ、抵抗なく受け入れてくれることがまた、月龍に幸せを実感させた。
――月龍が至福を味わう度に、蓮の胸に降り積もる不安が強くなっていく。
月龍はそれに、気づくことができなかった。