第195話 新たな認識

文字数 981文字

 震える声で告げたのは、非現実的なことだった。

「私の子供を返して。お願い、だから――」

 願いは、決して嘘ではない。あの子が戻ってくれれば、寂しさに耐えられる。月龍本人が居てくれなくても、彼の子供を育てられればきっと、我慢できる。
 死者が蘇るはずはない。今、自分が口にした願いが決して叶うことがないのはわかっていた。
 けれど思わずにはいられない。月龍と蓮が結ばれた証であるあの子が居てくれればきっと、慰められる。

「――すまない」

 月龍の顔が歪んだ。血の気を失い、眉をひそめて唇が震え――今にも泣き出しそうな表情に見えた。
 彼にも罪悪感というものがあるのだろうか。あの子を殺して悪かったと思っているのか。

「彼は――死んでしまった。おれが殺したから――君の子供はもう、この世にはいない」

 彼、と月龍は言った。そこで初めて、自分に宿っていた命が男の子であったことを知る。
 一体どのような子供だったのだろう。男の子なら月龍に似ていたのか。成長すれば、逞しく立派になっていたのだろうか、と。

 虚しい幻想にすぎない。現実となるべきだった幸せな将来図を無残に踏み躙った男は、目の前で顔を覆っている。

 子供の死を悼んでくれるのなら許せるかもしれない。そう思ったのは本心だった。
 けれどその気持ちは、急激に冷めていく。
 先程の泣きそうな表情も、辛そうに声を震わせるのも、同情を引くための演技ではないのか。もういいから顔を上げて、と言われるのを期待して――これ以上、蓮の問題に振り回されるのが煩わしくて、負けたふりをしているのではないかと邪推してしまう。

「謝るくらいならば何故、あの子を殺したの?」

 涙をぽろりとこぼして、月龍を責める。

「何故殺す必要があったの? 邪魔だと言うなら、私ともども追い出せばよかっただけなのに。必要なのが私の身分だけなら、人知れず養子に出せばいいだけだったのに」

 我が子を自らの手で育てられないのは寂しいだろう。それでも死んでしまうよりはいい。生きて、何処かで幸せに暮らしていると思えばまだ、心穏やかでいられる。

「――君にあの子を産んでほしくなった。君の幸せそうな顔を見ていられなかった」
「私があなたの子を産むのが許せなかったと?」

 唇を噛みしめた月龍の言葉に、反射的に毒づいていた。言った後に自分と月龍の発言内容に気づき、そうだったのかと改めて納得した。
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登場人物紹介

月龍《ユエルン》

古代中国、夏王朝の武官。

武に関しては並ぶ者なきと評される腕前。

無愛想で人の機微に疎い。

有力な宦官の孫として養子に入る。出生に秘密あり。

蓮《レン》

王の姪。王子の従妹。

穏やかだけれど型破りなところのある、小柄な少女。

月龍との出会いで、人生が一変する。


亮《リーアン》

夏王朝の第一王位継承者。

蓮のいとこ、月龍の親友。

亮を出産時に母が死亡し、妃を溺愛していた父王からは仇のように嫌われている。

絶世を冠するほどの美青年。頭脳明晰。

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