第198話 破談

文字数 3,075文字

「待ってくれ」

 赤子の両親に、なにやら謝罪の言葉らしきものを発した後、慌てた様子で追ってくる。
 蓮は走ってはいないが、かなりの早足で歩き続け、歩みを止めるつもりも月龍を振り返ることもしない。

「蓮!」

 動揺を浮かべた月龍は、馬車に乗り込もうとした蓮の手首を掴む。
 たったそれだけのことだった。なのに、びくりと身が竦む。掴まれた手にかかる圧力が、以前の暴力を思い起こさせた。
 咄嗟に手を払った蓮は体の均衡を失い、上りかけていた馬車の足台から地面へと転げ落ちる。
 月龍の顔から、さっと血の気が引いた。

「大丈夫か! 怪我はない?」

 助け起こすつもりか。慌てた素振りで手を差し伸べてくる月龍の心配げな顔が、やけに神経に触れた。

「触らないで!」

 自分の体を掻き抱き、声を限りに叫ぶ。月龍を見上げる目がどのような感情を表しているのか、自分ではわからない。
 わかるのはただ、地面に座り込む蓮を見る月龍の顔いっぱいに、戸惑いと後悔が浮いていることだけだった。

「すまない、つい――」

 眉を歪めて小さく呟く。それから蓮に視線を映すと、心配そうに首を傾げた。

「しかし、どうした? 子供がほしいと言ったのは君だろう。あの子は気に入らなかった? やはり君の子と同じ、男の子の方がよかったか」

 子供がほしいと、たしかに蓮は言った。この腕に子供を抱かせてくれれば月龍を信じてもいいと。
 だがそれは、蓮に宿ったあの命のことだ。代替えの利く存在ではない。
 月龍はそのようなこともわからないのだろうか。それとも子供は子供、誰の子だろうと構わないと考えたのかもしれない。

 蓮の寂しさを紛らわせるために、養子をとって誤魔化そうとした。

 月龍の帰りを待つ蓮の態度が疎ましかったのか。お前のせいで女とゆっくり会うこともできないと吐き捨てる声も、聞こえた気がする。

 なにより、怖かった。月龍が赤子に向ける、あの優しい笑みが。

 今でも月龍は、蓮に愛情を傾けることがない。しかし養子として赤子を迎えたら、あの小さな愛らしさに目を止める可能性がある。
 蓮が望んでも得られなかった愛情を一身に浴びて育つあの子を、愛してやれる自信はなかった。

「――あの子の、ためです」

 声を震わせて答える。

「だが彼女の両親は、財政的に困難を抱えていた。末子を無事に育てられるかもわからないと。それに、あの子の上にも子供が六人いる」
「他にも子供がいるから大丈夫? なんて浅はかな。子供は一人ひとり違います。お腹を痛めて産んだ我が子を傍に置いておきたくない親がいるとでも?」

 真情を吐露したところで、聞き入れてくれるはずがない。理屈めいたもので反論を試みる蓮に、月龍はああ、と笑みを滲ませた。

「そのことなら心配はいらない。あの子の母親を、乳母として雇い入れるつもりだ」
「――え?」
「あの子を養子としてもらい受ける代わりに、乳母と、そして家のことをやってもらう使用人として住み込みで働いてほしいと伝えてある」

 あの、他人を家に入れたがらなかった月龍が。
 愕然と見上げる蓮の顔など意にも介さず、月龍は淡々と続ける。

「父親の方は今、近くで馬の世話をしているらしい。ならば共に住みこみ、おれの馬の面倒を見てもらえれば、その名目でも給金を払える」
「ならば女性だけではなくご主人も? それでは子供たちは――」
「無論、一緒に来てもらう。使っていない離れがあるだろう。あれを整え、家族で住んでもらえばいい」
「けれど――」
「おれのところにいれば経済的に困ることはなく、子供達にも相応の教育を受けさせることもできる。君も、より多くの子供達に囲まれていれば、にぎやかになっていいだろう」

 月龍が出したのは、あの夫婦にとっては破格の好条件だった。喜んで受け入れたことだろう。

 蓮が必死で考えた理屈のようなものは、あっさりと覆された。
 焦燥感が生まれる。このままではあの赤子は、養子として入り込んでくる。

 あの子に、愛情が奪われてしまう。

「危険すぎます。血の繋がりのない娘を、家に置くなんて」
「危険?」
「だって、あなたのことですもの。あの子が成長したら、色欲を覚えるのではなくて? 私にしたように、力で押さえつけて乱暴するかもしれません」
「そんな――!」

 激高しかけたのか。声を上げかけた月龍は、しかし、我に返ったように口を噤む。そして悲しげに眉を歪ませ、小さく笑った。

「そのような心配はいらない。赤子が成長するまで――あと十数年も、おれは生きていないから」

 生きても、一年に満たないだろう。
 続けられた呟きが、癇に障る。この期に及んでもなお、「蓮のために死ぬ」などという戯言を盾に取るのか。

「そうですわね。きっと生きてはいないでしょう。どうせあなたは、あの赤子も殺してしまうでしょうから。――マオミィやあの子のように」

 気がついたときにはすでに、辛辣な言葉を吐き出したあとだった。
 ひゅ、と奇妙な音がした。息を飲んだ月龍の、気管支が鳴る音。
 ふと目を上げたそこに、今にも泣き出しそうに歪んだ月龍の顔を見た。

 ずく、と胸の奥が痛む。今の言葉か、月龍を傷つけたのは明らかだった。
 蓮が怒らせようとしても、悲しませようとしても、ただ気味の悪い薄ら笑いを貼りつけているばかりだったのに。
 その月龍が表した沈痛な顔に、心が騒ぐ。罪悪感なのか期待なのかもわからない。ただ早く脈打つ鼓動が、胸に痛かった。

 月龍は横を向いて俯いている。硬く目を閉じ、眉間に刻まれた皺も深く、険しい。

 どれくらいそうしていただろう。力のこもっていた月龍の両拳から、ふっと力が抜けるのが見えた。

「そうか――そうだな。たしかにおれならばやりかねないか」

 くすりと洩れた、苦笑の声。蓮の視線を避けるためか、月龍は右手で自身の目元を隠す。蓮の目に見えたのは、薄い唇が震えながら刻んだ笑みだけだった。
 指先で目尻を押さえ、俯いていた月龍が顔を上げる。

「どちらにせよ、君が気乗りしないのならば仕方がない。彼らに断ってくる。少し待っていてくれ」

 右手を外したそこにはもう、いつもの作り笑顔が浮いていた。
 ――蓮の大嫌いな顔が。

 月龍の手が差し伸べられる。地面に座り込む蓮を、助け起こすつもりなのだろう。
 けれどその手を取ることができない。かといって振り払うこともできなかった。どうしていいのかわからず、ただ座り込んだまま見上げる。
 月龍がふと、目を細めた。

「そう怯えないでくれ。心配せずとも、もう乱暴などしない」

 優しく笑いかけられても、応えることができない。伸ばされた手を握り返すには、勇気が足りなかった。
 痺れを切らしたのか。月龍は笑みの中に困ったような色を含ませながら、そっと地面に肩膝をつく。それからゆっくりと、蓮の肩に両手をかけた。

 今度は覚悟していたせいか、堪えられぬほどの恐怖はなかった。月龍に支えられて、馬車に乗り込む。
 踵を返し、夫婦の元へ戻って行った月龍が、時折頭を下げながら弁明しているらしき姿が見えた。
 夫婦が、不満げな顔を蓮に向けている。宥めるためか、月龍は懐から袋を出して渡していた。
 おそらく、金子だろう。他にも言葉を並べているようだから、もしかしたら今後の援助でも申し出ているのかもしれない。
 納得したのか、蓮には恨めし気な目を向けている2人も、月龍に対しては苦笑交じりとはいえ穏やかに接しているように見える。
 あの夫婦の目にはきっと、我儘な公主に振り回される立場の弱い婿養子、とでも映っているのだろう。

 遠目から様子を眺めていて、蓮は言い様のない虚しさを感じていた。
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登場人物紹介

月龍《ユエルン》

古代中国、夏王朝の武官。

武に関しては並ぶ者なきと評される腕前。

無愛想で人の機微に疎い。

有力な宦官の孫として養子に入る。出生に秘密あり。

蓮《レン》

王の姪。王子の従妹。

穏やかだけれど型破りなところのある、小柄な少女。

月龍との出会いで、人生が一変する。


亮《リーアン》

夏王朝の第一王位継承者。

蓮のいとこ、月龍の親友。

亮を出産時に母が死亡し、妃を溺愛していた父王からは仇のように嫌われている。

絶世を冠するほどの美青年。頭脳明晰。

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