第145話 兄弟

文字数 1,650文字


「久しぶりだな、兄上」

 声をかけられたのは、仕事帰りに立ち寄った市場でのことだった。
 悪阻のためか、蓮はほとんど食べ物を受け付けない。唯一口にできる物と言えば、水果くらいなものだった。
 どうせならば、より新鮮な物を食べさせてあげたいと、月龍自ら買いに来るのが日課となっていた。

 声の主は――振り返らなくともわかる。皮肉な口調はもちろん、自分自身とよく似たその声は、忘れたくとも忘れられるものではなかった。

「――蒼龍」

 肩越しにしか振り返らなかったのは、蒼龍の顔を直視したくなかったからだ。
 最後に見たのは、蓮との逢引の現場だった。否応なく、あのときの姿が思い出される。

 もっとも、あのときは蓮を庇いながら、おろおろと周章していたけれど、今はその面影もない。以前と同じ、皮肉っぽい笑みを口元に刻んでいる。
 本当ならばその顔に拳を叩きこんでやりたいところではあったが、自分の優勢を思うことでなんとか堪えられた。
 けれど、気に入らない。
 半歩だけ振り向き、斜に構えた月龍を、蒼龍がくすくすと笑った。

「そう怖い顔をするな。わざわざ祝福しに来てやったのに」

 腕を組んだ仁王立ち、顎を上げて見下ろすような角度の目つきは、あきらかに月龍を侮辱するためのものだ。
 所作の一つひとつが、神経を逆撫でする。狙ってやっているのだと思えば大したものだとも思うが、不快であることに変わりはない。

 けれど、もっとも気にかかったのは「祝福」の一言だった。意味ありげに発せられたのは、おそらく蓮の妊娠のことだろう。
 まだ公にされた話ではない。なのに何故、この男は知っているのか。

「――祝福?」
「ともかく立ち話と言うのも味気ない。どうだ、少し付き合わないか」

 とぼけたつもりの台詞を曖昧に流し、蒼龍は左手で杯を傾ける仕草をした。

「近くに宿をとってある。こちらに滞在している間は、ずっとそこに居てな」
「ついて行くと思うか?」
「別に罠などは仕掛けていない。蓮も知っている場所だ。もしあなたになにかあれば、蓮も探しに来るだろう」

 そのような場所でなにかを仕掛けるわけはないのだから、安心しろ。言外に告げられる声に、眉根を寄せる。
 もし月龍が戻らなくとも、蓮はやって来ない。外出の許可は、月龍が共にあるときしか出さないのだから。
 否、蒼龍も文字通り、本当に月龍の不安を消そうとしたわけではない。むしろ逆だ。蓮の名を出すことで、そして彼女が蒼龍の滞在場所を知っていると伝えて、2人の親密さを思い知らせようとしたのだ。

「まあ、あなたが警戒する気持ちもわかるが――ならば何処か、酒場でもいい。場所はあなたが決めてくれて構わないから」

 はっきりと口には出さないけれど、月龍に対して、臆病者と誹っているのは火を見るよりも明らかだった。

「お前に話などない」
「そうつれないことを言ってくれるな。おれ達は兄弟ではないか。――様々な意味でも」

 言葉にある含みに気づかぬはずもない。カッと頭に血が上り、さらに強く睨み据える。
 だが蒼龍は怯えた様子も見せず、むしろ安堵したかのように目を細めた。
 おお怖い、とおどけた仕草で肩を竦める様は、余裕に満ちているようにしか見えない。

「そのことで話があったのだが――まぁ、あなたが聞きたくないと言うなら、無理に聞かせる必要もない」

 知らぬ方がいいこともある。

 意味深長に続けられた台詞は、おそらく罠だ。
 わかってはいる。わかってはいても、蒼龍が言った「そのことに関して」の台詞を看過することはできなかった。
 それは、蓮に連なるという意味ではないのか。
 ならば知っていた方がいい、否、知らなければならない。危害が、蓮に及ぶのを防ぐために。
 月龍と蓮、どちらの危険を選ぶかとなれば、迷うまでもなかった。

「――気が変わった。つきあってやる」
「では、場所はどうする?」
「お前の宿でいい」
「そうか。それは嬉しい」

 信用してくれたのだな。
 そう続け、月龍と同じ顔が浮かべたのは、月龍自身ではあり得ない、妙に明るく人好きのする笑顔だった。
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登場人物紹介

月龍《ユエルン》

古代中国、夏王朝の武官。

武に関しては並ぶ者なきと評される腕前。

無愛想で人の機微に疎い。

有力な宦官の孫として養子に入る。出生に秘密あり。

蓮《レン》

王の姪。王子の従妹。

穏やかだけれど型破りなところのある、小柄な少女。

月龍との出会いで、人生が一変する。


亮《リーアン》

夏王朝の第一王位継承者。

蓮のいとこ、月龍の親友。

亮を出産時に母が死亡し、妃を溺愛していた父王からは仇のように嫌われている。

絶世を冠するほどの美青年。頭脳明晰。

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