第40話 一触即発
文字数 2,092文字
冬の到来を告げるような冷たい風が、さっと吹き抜けていく。
門前に立つ男は寒そうに、衣服の前を合わせ直し、身を縮めた。
男の名を、
以前は、月龍の邸まで蓮を送り届けた後、彼は立ち去っていた。
高貴な身分でありながら奔放な蓮はよく、従者をまいて何処かへ行くこともあったらしいが、月龍を待つようになってからはその放浪癖はなくなったという。
公主とお付きの従者。上下関係のある者と一緒では、上の立場である蓮も気遣っていたのではないか。
その点、恋人である月龍相手には遠慮はいらない。特に月龍は、蓮に甘い様子がうかがえる。出かけるのに、行きたいところを言えば彼が連れて行くだろう。
一人でいなくなる心配がなくなれば、従者も蓮を邸に残し、安心して帰ることができる。
その隙をつく形で、蒼龍は蓮と面会を重ねた。自分でも、うまく取り入ったと思っている。
だからこそ、月龍に正体を明かした。
たとえ警備が厳しくなったとしても、蓮は蒼龍をかばう。護衛や従者が傍につくようになったとしても、蓮が蒼龍を「月龍だ」と言えば、彼らは立ち去るはずだ。
正体を明かしてから、数日が経つ。あの日険悪だった蓮と月龍は、元の鞘に収まったらしい。さすがに、放っておいても別れてくれるかもしれぬ、との期待は、甘すぎたようである。
ならば、念押しの工作に出るまでだ。
蒼龍の出現に、月龍は焦燥感を覚えている。警戒していてもなお奪われたとしたら、おそらくその方が心理的損傷は激しいだろう。
より月龍らしく見えるよう、色味が暗い、控えめな衣服を纏って、従者の前に姿を現す。
「
従者の顔に、怪訝が浮かぶ。
確かに、常よりは多少早くはある。だが出現に違和感を与えないため、月龍の帰宅が最も早かった時刻まで待っていた。たとえ早いとしても、微々たる差だろう。
「大して変わらないだろう」
蒼龍であれば、取りなすために笑みを刻む。けれど無骨な月龍ならばおそらく、不快の表情を晒すだろう。
意図して作った憤りに、従者は更に顔を険しくする。
「そうでしょうか」
「強いて言えば、多少は急いだか。不穏な人物がいるのでな」
言い訳じみてはいるが、嘘ではない。実際ここに、蒼龍という「不穏な人物」がいる。
「たしかに。では、ご提示をお願いいたします」
わずかに頬を緩ませた従者が続けた言葉に、即座に答えることができなかった。
推測はできる。蒼龍の接近を警戒して、なにか月龍の証を従者に提示するようになっているのだろう。
油断した。
どうせ無骨で粗忽な月龍のこと、対策は後手に回ると侮っていた。おそらくは、亮あたりの入れ知恵か。
この従者も、思いの外切れ者なのかもしれない。提示を求めながらも、品物がなにか、とは口にしなかった。
月龍ならば明確に言われなくともわかるし、もし別人の場合、その者に情報を与えてしまうのを恐れたためだろう。
さて、どうしたものか。表情を変えないままに、頭を巡らせる。
鍛錬の際には着替えをする。肌身離さず持っていたつもりだが、はずみで落としてしまったのかもしれない、気づかずにここまで来てしまった――考え始めた弁明を、途中で却下する。
品物がなにかわからない以上、迂闊なことは言えない。そもそも物ですらなく、肌に墨を入れた可能性などもある。
ならば、忘れた、取りに戻る、といった台詞を口にすれば、自ら月龍ではないと白状するに等しい。
否、どのような弁明にしろ、証を提示することなく踵を返しては、怪しいことこの上なかった。
従者の体格は中肉中背で、武術の類ができるようには見えない。もしかしたら護身術程度の物は身につけているかもしれないが、蒼龍とは比べるまでもなかった。彼を昏倒させるのは、たやすい。
また、近くに護衛が潜んでいるのも知っていた。そうやって蒼龍が実力行使に出たときのことを想定しているのだろう。
従者を倒した時点で、攻撃を仕掛けてくるのならばいい。護衛の兵よりも、蒼龍の方が腕は立つ。
だが護衛が一人とは限らない。二人以上いた場合、月龍の元へ知らせに走る者もいるはずだ。
時間が足りない。
警戒を強められれば、もう二度と蓮に近付けない恐れもあった。蓮の心身を手に入れてこそ、月龍を絶望の淵に叩き落とすことができる。
蓮の心は未だ、月龍を向いていた。知らせを受け、月龍が駆けつけるまでの短時間でできることと言えば、蓮を攫って逃げるくらいだろう。
無理に連れ去れば、蓮に不信感を植え付ける。それでは彼女の心は手に入れられない。計画は、頓挫してしまう。
――否、一層のこと殺そうか。
蓮を暴力で痛めつけ、酷い凌辱の痕を残した遺体を放置する。
それを見つけた時の月龍の心情は、想像に難くない。
じわじわと追いつめてやりたかった。単純で力押しの復讐は容易だが、それでは面白くない。
長く苦しみを味わわせてやりたかったのだけれど、こうなった以上は仕方がなかった。