第203話 手を汚す

文字数 969文字


 蓮が目覚めたとき、そこにはもう月龍は居なかった。
 空は白々と明るい光を運んでくる。瞼越しに当たった柔らかな光が、目を開かせた。
 頭に血が通っていないかのように、呆然と状況を考える。ぼんやりとしたままゆっくりと体を起こし――昨夜のことを思い出して、はっとなった。
 自分の喉に、手を当てる。

 ――生きている――?

 何故、という疑問がすぐに浮かぶ。苦しさが限界を超え、意識を手放す瞬間、たしかに死を覚悟した。なのに何故まだ、生きているのだろう。
 気絶した姿を見て、もう死んだと勘違いしてとどめを刺し忘れたのか。
 否、そこまで甘くはないだろう。なにより、効率的に人を殺す術を知っている男だ。相手の生き死にくらい、判別がつくはずだ。

 ならば、途中で思い直したのか。
 では何故、考えを改めたのか。
 そもそも殺す必要はない。蓮は、たった一度抱くだけで自ら手を下すと宣言していた。わざわざ殺して、手を汚す必要はない。

 手を汚す。そこまで考えて気づいた。
 たしか、月龍は蓮の首を絞めながら言っていた。なにも身を汚す屈辱に堪える必要はない、と。

 その通りだ。素直に手にかけてしまえば、事は一瞬ですむ。好きでもない女を抱いて嫌な思いをすることもない。

 殺害を思い直した理由も、想定はできる。
 蓮が死んで、亮が遺体を改めないはずがない。首に絞め痕などあれば、殺されたと一目でわかってしまう。そうしたら今度こそ、月龍の処罰は免れない。

 月龍は蓮を殺さなかった。けれど死んでほしいという願いがあることを、証明してくれた。
 願いを伝え、悟った蓮がどう行動するかなど、月龍はきっとわかっている。

 いつも身につけている、護身用の懐剣をとり出す。
 自殺でも、亮は月龍に怒りをぶつけるだろうとは思う。傍に居たお前が何故支えてやれなかったと、泣きながら詰め寄る姿が容易に想像できた。

 月龍は――どうするだろう。自殺の理由を、なんと亮に説明するのか。
 子供を失った絶望感から発作的な自殺――そう弁明するのが妥当だろう。君の辛さにきづけなくてすまないと蓮の遺体に謝罪し、涙の一つも流せば、亮もそれ以上はきっと責めない。

 ――亮を騙すときに流す涙の中に、ほんの少しでも蓮を想う心を混ぜてくれたら嬉しいのだけど。

 懐剣を抜く。光を反射する白刃を、不思議と落ち着いた気分で見つめていた。
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登場人物紹介

月龍《ユエルン》

古代中国、夏王朝の武官。

武に関しては並ぶ者なきと評される腕前。

無愛想で人の機微に疎い。

有力な宦官の孫として養子に入る。出生に秘密あり。

蓮《レン》

王の姪。王子の従妹。

穏やかだけれど型破りなところのある、小柄な少女。

月龍との出会いで、人生が一変する。


亮《リーアン》

夏王朝の第一王位継承者。

蓮のいとこ、月龍の親友。

亮を出産時に母が死亡し、妃を溺愛していた父王からは仇のように嫌われている。

絶世を冠するほどの美青年。頭脳明晰。

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