第140話 過去
文字数 1,933文字
「それで――月龍の様子はどうでした?」
「どう、とは」
心配そうに柳眉を歪める嬋玉への、返答につまる。
月龍の後ろ姿を見送った後、亮はその足で嬋玉を訪ねた。珍しいことではあるが、一人ではいたくない気分だったのだ。
訪ねた亮を、嬋玉はいつものように歓待してくれた。だが何処か、いつもと違う雰囲気がある。
それがなにかと考えかけた矢先の質問に、戸惑った。
「午後の訓練にも出ず、慌てて帰って行った。よほど嬉しかったのだろうな。まぁ、無理もないが」
心から愛した女性が、自分の子を宿した。嬉しくて当然だ。亮が月龍と同じ立場であれば、やはり同様の行動をとったに違いない。
もっとも、その僥倖が月龍のものとなった以上、亮がその経験をすることはなくなったのだけれど。
一抹の寂しさが、嬋玉の元へと足を向けた理由だった。
同時に、仕方がないと諦めているのも本心である。立ち去るとき、月龍が肩越しに見せた白い歯に、我がことのように嬉しくなってしまったのだから。
酷いお人好しだな。自分をそう評し、苦く笑う。
「では――月龍は喜んでいたのですね?」
「筆舌に尽くし難し、といった様子だったな」
確認するように尋ねてくる嬋玉に、重ねて頷いて見せる。そうですか、と小さく洩れた嬋玉の呟きに、首を傾げた。
「なにか、気になることでも?」
「少し――ねぇ、殿下、あの二人、なにかあったの?」
心配げに発せられた質問に、ぎくりと身が竦む。
以前はなにか動きがあるたびに、報告に来ていた。しかし、月龍が蓮のためにと別れようとした、あのとき以降訪ねることはしなくなった。昨日、嬋玉の呼び出しに応じたのが、数カ月ぶりの訪問だった。
弟にも等しく思っている月龍の非道を知れば、嬋玉は心を痛めるに違いない。そう考えたのも事実だが、理由はそれだけではない。
怖かったのだ。
あのとき亮は、月龍の暴言に便乗する形で蓮を抱いた。嬋玉の目から見れば、蓮を悲しませたことにおいて亮と月龍は同罪だろう。
自覚がもたらす後ろ暗さと、事実を知られて嬋玉に幻滅されることが怖かった。
思わず口ごもったことが、返事となった。
「そうなのね? なにがあったか、殿下はご存じなの?」
ご存じもなにも、罪の一端を担っている。
自嘲の笑みを刻んだ口元で紡ぐ言葉は、自己弁護も兼ねていた。
「いやまぁ、かなり前のことだし、片はついているはずだ。うまくいっていなければ子が宿ることもないだろうし、あれほど嬉しげにするはずもない」
後半は、亮が抱く希望でもあった。蓮だけでなく、月龍にも幸せになって欲しいと願っているのは、心の底からの本音である。
「そう、ですわね。――きっと、私の思い過ごしね」
ふっと笑みを洩らす嬋玉の声は、自分自身に言い聞かせるかのようでもあった。
なにか気にかかることでもあるのか。不意に心配に駆られた亮が口を開くよりわずかに早く、嬋玉は微苦笑と共に首を傾げた。
「なんて、蓮のことを心配しているようなことを言っているけれど、本当は蓮に嫉妬しているだけかもしれませんね」
「嫉妬?」
意外な言葉だった。月龍の子を宿した蓮に嫉妬するとは、嬋玉は月龍に惚れてでもいるのだろうか。
「好きな人の傍に居て、好きな人の子供を産める蓮が、羨ましいのかも」
「――ああ」
そういう意味か。納得と同時に、胸が詰まる。
嬋玉が一途に想い続けている相手は、彼女を顧みなくなってもう、十数年が経った。亮が覚えている嬋玉は、いつもこの部屋に一人座り、亮たちを優しく出迎えてくれる姿だった。
そのような境遇に身を置く嬋玉にとっては、蓮が羨望の対象となるのも無理からぬことかもしれない。
「殿下は幼くてらしたから、きっと知らないでしょうけれど――私も、子を宿したことがあるの」
「――え?」
「あなたの妹君にあたる子を、ね」
嬋玉の静かな笑みがもたらしたのは、亮には初耳のことだった。息を飲んだ後、思わず問う。
「その子は、どうなされた――?」
「亡くなりました。生まれる前――まだほんの、小さい頃に」
洩れた苦笑に、愚かなことを訊いたと後悔する。亮に妹はいない。それがすべてを物語っているというのに。
謝罪することすら申し訳なくて、沈黙を友とする。
「あのとき、私はちょうど今の蓮と同じ年頃で。でも、御子を生んで差し上げられなかった。あの頃からだったかしら。陛下が、私の元に来て下さらなくなったのは」
隠そうとはしているようだけれど、嬋玉の面を心痛が飾っている。
蓮の妊娠が、幸せだった過去と失った子供のことを思い出させたのか。いつも以上の儚さの原因を見た気分ではあったが、かけるべき言葉など見つかるはずもない。
嬋玉をこうして悲しませているのは、他でもない亮の父親なのだから。