第126話 喪失

文字数 1,108文字

 蓮の微笑みが自分以外の男に向けられる。
 想いが、蓮のすべてが奪われてしまう。
 月龍の中に生まれた感情はきっと、恐怖だったのだろう。けれど怒りとしてしか、表現できなかった。

「優しくされたから? 愛していると囁かれたから、だと?」

 憎々し気な響きだった。背筋が凍る恐怖を覚えてもおかしくないのに、蓮の表情は動かない。
 この顔が、嫌いだ。整ってはいても作り物のような美貌になど興味はない。

 なんなら目の前で抱いてみろと言ったのは、ただの挑発ではなかった。仮にそうなっていたら、喜びに染まる蓮の顔を見ることはできる。
 まして蒼龍は月龍とよく似ている。その姿に自分を重ね、睦み合っている錯覚に浸れるかもしれないとも考えた。

 他の男が蓮に触れるのは許せないのに、矛盾している。けれど、それでも蓮の顔に感情が浮かぶのを見たかった。
 立ち去る蒼龍に向けられた微笑みにも、一瞬動揺し、次には嬉しくなった。たとえ寂しげだったとしても、笑顔を見たのはどれくらいぶりだったろうか。

 けれどすぐに、それが向けられたのが自分ではなく弟なのだと思い出し、腹立たしくなった。
 ――もしかしたら、言葉を真に受けた蒼龍が蓮を抱いていたとして、幸せそうな彼女を見られた喜びと、それに倍する憤りに襲われていたのかもしれないが。

「そうされれば誰にでも抱かれるのか」

 月龍が何度、愛していると言ったと思っているのか。聞く耳すら持たず、信じてくれなかったではないか。
 優しくしたかったに決まっている。だがそうしていたら、逃げ出していたのではないか。恐怖で縛りつける以外、傍に居てくれなかったくせに。

 ただ、蓮を失いたくなかった。だからこそ愛の言葉を飲みこんだ。頬を撫でる代わりに打ちつけた。
 すべて、蓮の傍に居るためだったのに。

「清純そうな顔をした淫売が。恋人の親友や上官だけでは飽き足らず、弟までか」

 蓮を引き寄せ、小さな体を片手で抱え込む。もう片方の手は、懐にある懐剣に伸ばされていた。

「おれの知らぬ男となれば、一体どれだけの数に及ぶのか」

 蓮の名誉を著しく損なう発言は、本意と挑発が混じり合ったものだ。
 亮や楊の件は、お前が命じたのだろうと罵倒してほしい。そうしたら、謝ることができる。
 そして、蒼龍のことを責められる。
 心は千々に乱れ、なにを望んでいるのかさえ分からない。

「反論はないのか。本当に――そうなのか」

 懐剣を、鞘から抜く。
 刀身を見ても、蓮の顔は変わらない。喉元に突きつけられても、命乞いひとつしなかった。
 刃が目に入っていないとでも言うのか、無気力な視線を宙にさまよわせている。

 ――こんなもの、いらない。

 懐剣を持つ手に、力がこもった。
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登場人物紹介

月龍《ユエルン》

古代中国、夏王朝の武官。

武に関しては並ぶ者なきと評される腕前。

無愛想で人の機微に疎い。

有力な宦官の孫として養子に入る。出生に秘密あり。

蓮《レン》

王の姪。王子の従妹。

穏やかだけれど型破りなところのある、小柄な少女。

月龍との出会いで、人生が一変する。


亮《リーアン》

夏王朝の第一王位継承者。

蓮のいとこ、月龍の親友。

亮を出産時に母が死亡し、妃を溺愛していた父王からは仇のように嫌われている。

絶世を冠するほどの美青年。頭脳明晰。

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