第35話 確執
文字数 2,064文字
邸に着くまで、月龍は一言も話さなかった。
無口なのは今に始まったことではない。普段と違うのは、月龍と同様、蓮も口を閉ざしていることだった。
唇を真一文字に引き結び、険しい表情を作るなど、蓮らしくない。
「どうして?」
先に邸に入った蓮が、後ろ手に扉を閉めた月龍を振り返った。
見上げてくる目が、潤んでいる。非難の色を隠す気もないようだった。
「確かに驚きもするでしょうし、急には受け入れがたいことかもしれません。でもそれは
いつもの甘ったるさが感じられない、厳しい口調。蓮からこのような声が発せられたのは、初めてだった。
自分が陵辱されたときでさえ一切月龍を攻めなかった蓮が、蒼龍のために怒っている。
はっ、と短い笑声を吐き捨てた。
「君はよほど、あの男が気に入ったと見える」
「そのようなこと」
「いつからだ」
否定を遮る声が、低くなる。
「いつから、あの男と会っている」
目付きの鋭さも、自覚済みだ。
蓮を怯えさせたくはない。けれど、怒気を抑えられなかった。
「――もう、随分前のことです」
蓮の唇から、小さなため息が洩れる。軽く目が伏せられて、睫毛の長さが際立って見えた。
「覚えていませんか? とても別人とは思えないくらいあなたに似た人に会った、と言ったことを」
忘れられるはずがない。他者と混合するなど、やはり自分は特別ではないのだと、逆上の一因となったのだから。
今にして思えば、この上もなく適切な表現だったとわかる。勝手に勘違いをして、一人で憤った月龍はただの愚か者だ。
思い違いをして、蓮を傷つけたことを申し訳なく思うより、苛立ちの方が強い。
「ならばあのときから――幾月も前から、あの男と会っていたのか」
帰ったときに花が飾られていたことは、頻繁にあった。従者を伴っているのだとばかり思っていたが、ずっと蒼龍と一緒だったのか。
二人の親密な様子と、蒼龍を思いやる蓮の言――すべて、月龍に対する裏切り行為だった。
「――ごめんなさい」
月龍の怒りに触れたせいだろうか。蓮の声音が、僅かながら申し訳なさそうになる。
「ずっと黙っていたことは謝ります。あなたが出生に――その、劣等感を抱いていると、亮さまから聞いて知っていました。その出自がわかったのだから、本当はすぐに話さなければならなかったのでしょうけど」
月龍が納得できないのは、蓮と蒼龍が逢引きを重ねていたことだ。そもそも、弁解する観点が違う。
「でも、大切なことだから会って話をしたいという蒼龍の気持ちも、理解できるのです。混乱させたくないから、時期を待つというのも」
「――おかしいとは思わなかったのか」
怒鳴るのを我慢するほど、声に凄味が増す。蓮が相手でなければ、とっくに手を上げていただろう。
え、と不思議そうな表情を向けてくるのが、さらに怒りを誘った。
蒼龍の話が真実だったと仮定する。その上で彼の立場であれば、蓮に仲介を頼んですぐにも会おうとしただろう。
第三者を通して双子の存在を知らせる。それから事情を詳しく話したいから会いたいと、伝えてもらうはずだ。
最も混乱を防ぎ、かつ、円滑に事を運ぶ、簡単な方法である。
月龍でさえ思いつく理屈だ。見た目よりもずっと頭の回転の早い蓮が、気づかぬはずがない。
気づかなかったとすればよほど蒼龍を信頼し、その言葉を鵜呑みにしていたのだろう。
否、気づく、気づかないではなく、すでに蒼龍と共謀していたのであれば?
蒼龍がなにを企んでいるのかは、わからない。疑いないのは、月龍に向けられる敵意だけだ。
ならば、よからぬことと決まっている。
蓮がそれを、黙認しているのだとしたら?
「
「――え?」
「君はあの、胡散臭い男を信用した。それはやはり、薛家の子息だったからだろう?」
家柄、身分さえはっきりしていればいいと言うのなら、それらが不明であった月龍のことはどう思っていたのか。
薛家の血を引くと聞いて、安堵したのかもしれない。宦官の養子、成り上がった武官であることは変わらずとも、身元がわからぬよりは、薛家の子息の方が公主の相手としては相応しい。
――否。
「君が気に入ったのは、この顔だったのか」
左手で右頬に触れる。皮肉な笑みで歪んでいるのが、掌を通して感じられた。
「同じ顔だから、どちらでも良かったのか? 武官と諸侯の後継ぎ。どちらにつたい方が得策かと選んでいたのかな」
莫迦なことを言っている。頭の片隅で、自嘲が浮いた。
もし蓮が顔で男を選ぶなら、初めから月龍など相手にはしない。絶世を冠していい亮の美貌の前では、太刀打ちできる男がどれだけいることか。
まして、薛の名に惹かれたなどとはあり得なかった。蓮の身分はもっと高位なのだ。心動かされる要因となるはずがない。
月龍の言葉には、幾つもの矛盾がある。論理が支離滅裂なのは自分でもわかっていた。
けれど――。
「どちらを選ぶ。おれか? あの男か」
苛立ちが、心にもないことを口にさせた。