第136話 姮娥
文字数 1,520文字
いつものように平伏する蓮の姿を見つけたときの安堵たるや、言い知れぬものだった。一日中、不安に胸が潰れる思いでいたから、反動でより舞い上がる。
喜色を満面に浮かべ、そのまま寝所へと運び去った。
ふと目を覚ましたのは、夜中のことだった。隣りにいるはずの蓮の、気配がない。
湧き上がったのは、既視感だった。あのとき蓮は、隣りを抜け出し、隠れて一人、涙していた。今もどこかで、声を殺して泣いているのだろうか。
ならば傍に行きたい。泣いている間、肩を抱いて宥めてあげたい――浮かんできた想いを、頭を振って断念する。
追いかけて行ってはきっと、泣くことすらできなくなる。知らぬふりをすることが、蓮のためだ。
けれど、とてもではないが眠れる心境にはなれない。せめて近くにいたくて、そっと臥牀を抜け出す。
以前居たところに、姿はなかった。何処へ行ったのだろう。不安に思いながら、蓮の居場所を探した。
不用意に動いて気づかれてもいけないから、慎重に足を進める。かすかな水音を捉えたのは、寝所を抜け、居間に差し掛かった頃だった。
中庭の方だろうか。音に吸い寄せられ、自然とそちらへ向かう。回廊を出ると、柱の陰に隠れてそっと、様子を盗み見た。
新月の宵であった。暗がりの中、星明りにのみ照らされ、井戸の傍らに蹲る蓮の姿が見える。
なにをしているのか。怪訝に眉をひそめる月龍のことなど知らず、蓮は井戸からくみ上げた水を、その身にばしゃりと浴びせた。
見ると、井戸の周りは泥上にぬかるんでいる。もうすでに、幾度も先程の行為をくり返している証だった。
夏が近いとはいえ、やはり夜はまだ冷える。その中、薄い肌着一枚で水をかぶればさすがに寒かろうと思うのだが、当の蓮はなにか思いつめたような眼差しをしていて、寒がっているようには見えない。
思わず踏み出した足が砂を踏みしめ、じゃりっと鳴った音が月龍の存在を知らせたらしい。蓮ははっと顔を上げて、振り返った。
かすかに驚きの色は見えるが、泣いていたわけではないようだ。ひとまずは安堵し、だがすぐに疑問に襲われる。
このような夜中に水を浴びる理由は、何処にあるのだろうか。
少なくとも月龍には、見当もつかない。
「――なにをしている。このような時刻、場所で」
尋ねる口ぶりは、詰問調だった。
いつものことだ。蓮は怯む様子も、怯えの色も見せない。歩み寄る月龍に向けられた視線は、ただただ冷たかった。
「身を――清めていたのです」
一瞬蓮が言い澱んだ、戸惑いの意味がわからない。
わかるのは、自分が感じた寂しさと怒りだった。ギリ、と音を立てて歯を噛みしめる。
「おれに触れられた体は、それほど汚らわしいか」
吐き出した憎々しげな声に、蓮は答えない。黙って、項垂れるように俯いた。
それが、肯定の返事に思えた。
独りで泣いているのではないかとの心配も、蓮を思いやっていた気持ちも、その場で四散する。
髪から垂れる滴が頬に落ち、まるで涙だった。
月龍を拒絶して泣いている。そう見える様さえ美しく、天上から舞い降りた
なるほど、それで今宵は天に月がないのか。
「無駄なことだ」
地に落ちた月の女神を、抱き竦めるよりも早く押し倒す。
「幾度身を清めようと、その度にこうして汚してやる」
濡れた衣服の上から、冷えた蓮の胸を握りしめる。低く囁きかける
観念した表情に、一抹の虚しさが浮く。
けれどもう、止められない。どうせなにをしても、蓮の心は取り戻せない。
もうどうでもいいのだと、諦めから発した自棄が月龍を支配している。
そして二人は泥にまみれながら、その夜も忌まわしい行為を繰り広げた。