第220話 不安と喜びと
文字数 1,572文字
蓮の顔も見たくないはずの月龍が何故、わざわざ寄ってくるのか。とっさに目を開けかけて、慌てて閉じる。
起きているとわかれば、月龍はまたあの作り笑いを浮かべるのだろう。それを見たくないのもあるが、眠っている蓮になにをするつもりなのかを知りたかった。
身分を気にして言えない恨み言を囁くのだろうか。だとしたら聞きたい。月龍がなにを不満に思っているのかを。
そうしたら彼の望みを叶えられる。
すぐにそう考えた自分が、少し悲しかった。状況が変わってもやはり、月龍の顔色ばかりを窺ってしまう。
嫌われたくない、役に立ちたい、わずかでも気に入ってもらいたい。
「――蓮」
聞き取れるかどうかくらいの、小さな声。心臓が、とく、と高鳴った。
眠っているふりが知られてしまったのか。あざといと思われ、怒らせてしまっただろうか。
けれど、月龍の声で聞く自分の名が嬉しかった。
不安と喜び、どちらが強いのかはわからない。ただ、酷く胸が騒ぐ。
鼓動の音が聞こえてしまうのではないか。息苦しくさえなりそうなのを、気力を振り絞って平静を装う。
なにかが頭に触れた。手、だろうか。そのままするりと滑っていく。
――撫でられた……?
目を閉じているからはっきりとはわからないけれど、ずっと前、月龍によくそうされていたときの感触と同じ気がする。
二度、三度と繰り返されて、やがて、滑り降りたまま動きを止めた。
どうしたのだろう。気づかれないように、そっと目を開けて様子を窺う。
もし月龍が蓮の顔を見ていたらそこで知られてしまうが、幸いにも彼は俯き、視線を落としていた。
そして、一房掴んだ蓮の髪に唇を押し当てている。
なにをしているのだろう。謎の光景に目を疑った。
はっきりと表情は見えないけれど、眉間にしわが寄っているところをみれば沈痛な面持ちが推測できる。
険しい顔をするくらいならば、そのような行動をとる必要はない。まるで蓮に敬意を表しているような、愛しているような――
不意に月龍が顔を上げる気配を感じて、慌てて瞼を下ろす。気のせいかもしれない。見つめられていると思うのは、自意識過剰なのだろうか。
なにかが、頬に触れる。
――否、正確には触れていないのだろうか。目を閉じていてもすぐ近くまで迫れば皮膚感覚で感じ取れる。
それが勘違いなどではないことは、首筋に息がかかったことで証明された。
胸が痛む。激しく打ちつける鼓動が、心臓に負荷をかけた。苦しさに息が乱れてしまいそうになるのを、懸命に堪える。
「おやすみ」
耳朶に唇が触れるか触れないか。声ではなく、吐息のような囁きだった。
それだけだった。
それ以上はなにかされることもなく、月龍は離れていく。
ばさりと、離れたところから布ずれが聞こえた。月龍が牀に横たわり、毛布にくるまった音。
殺していた息を、布団の中に深く吐き出した。
今のはなんだったのだろう。月龍の行動の意味がわからない。
蓮が起きているときならばまだわかる。月龍は蓮を想っている風を装っているから。
けれど眠っていて意識のないときに主張しても、なんの訴えにもならない。月龍の有利に働くことは、なにひとつなかった。
もしかしたらやはり、起きていることに気づいていたのかもしれない。「眠っていると思っているはずなのにこのような行動をとるのは愛しているからだ」と蓮に思いこませるために。
姑息なことだ。
なぜそこまでする必要があるのだろう。趙家の婿になり、身分を手に入れた。それだけで目標は達しているはずなのに。
寝返りを打つ振りで、壁際の牀に目を向ける。暗がりの中、横たわっているらしき人影だけが見て取れた。
闇に目が慣れても、月龍の寝顔を見ることはできなかった。
見えたのは闇に溶け込む黒い髪。こちらに背を向けているのだと気づけば、無性に寂しさが募った。