第141話 相見互い
文字数 2,177文字
「――ねぇ、殿下」
しっとりと呼びかけてくる、涼やかな声。
幼い頃から憧れ続けた嬋玉の姿は、初めて出会った頃と少しも変わらない。幼児の頃は見上げていた美しい顔を、こうして見下ろすようになったことくらいだろうか。
そう、いつの間にか嬋玉の身長を追い抜いてしまっていた。
だから嬋玉は、こうやって亮を見上げるのだ。蓮と同じ、大きな琥珀色の瞳で――
「あなたは大丈夫?」
「大丈夫、とは」
「だって、あなたは蓮のことが好きなのでしょう? 蓮が月龍と結ばれて、子を授かって――それでもあなたはそうして二人を祝福して。辛くはないの?」
咄嗟に否定しかけて、その愚かしさに自嘲する。嬋玉は、亮が自分の気持ちに気づくより早くそれを知っていた。今更ごまかされてはくれないだろう。
「嬋玉殿には敵わないな」
素直に認める。むしろ指摘されたあのときに認めれいれば、なにかが変わっていたのかもしれないが、言っても詮無いことだ。
「辛くないと言えばさすがに嘘になるか。だがあのとき、嬋玉殿に言われた言葉が効いている。おれと月龍にいがみ合ってほしくない、だったか。嬋玉殿の頼みを聞かぬわけにはいかないからな」
「殿下――」
「いやいや、嬋玉殿のせいだと言っているのではない。なによりの理由は――やはり蓮だな」
嬋玉の眉が歪むのを見て、慌てて否定する。こういうときにふざけた物言いをしてしまうのは、亮の悪い癖だった。
けれど蓮の名を出せば、少しは神妙な気分になる。ふっと細いため息に、笑声を乗せた。
「嬋玉殿ではないが――おれと月龍が本気で憎み合ったりしようものなら、蓮もまた悲しむだろう。あれの泣く顔など、見たくはない」
虚勢ではない。寂しさは禁じ得ないけれど、蓮が幸せなのだと思えば不思議なほど心は落ち着いている。
「蓮は、本当に愛されているのね。羨ましい」
宥めるつもりなのだろう。発せられた呟きに、ついくすりと笑みが洩れる。
「そのようなことを言うものではないな、嬋玉殿。あなたがおれに気があるのではないかと、自惚れてしまうぞ」
「でも――蓮でなくては駄目なのでしょう?」
嬋玉の言葉は、亮の軽口の肯定だろうか。驚きに、笑みが消える。
もしかしたら亮と同様、嬋玉もふざけているのではないか。
――きっと、そうだ。
思いたくて表情を確かめようとする亮の目から逃れるように、嬋玉が腕の中に飛び込んでくる。
反射的に抱き留め、だがどうしていいのかわからず、呆然とするしかできない。
「嬋玉、殿?」
「私では、あなたの慰めになりませんか? あの子の代わりとしてでも――私は、それでも」
構わないと言うつもりなのだろうか。自分の腕の中から見上げてくる嬋玉の双眸に、戸惑いを禁じ得ない。
嬋玉は初恋の相手だ。しかもその容貌は、見紛うほどに蓮とよく似ている。瞳の色も、目鼻立ちも、甘い声も、すべてだ。
まるで数年後の、成長した蓮が、潤んだ瞳で誘っているかのような錯覚に襲われる。
抱き留めただけのはずだった腕に、力が入った。
胸の高鳴りの割りに、心臓は動いていないのだろうか。血の巡りが悪くなっているかのように、頭がぼんやりとする。
ほとんど意識のないまま、すっと唇を寄せ――
瞳を閉じた嬋玉の、悲しげな眉にふと、思い留まる。
――そして、気づいた。
くすりと苦笑を洩らして、そっと、嬋玉の額に口づける。
「――殿下?」
口づけの場所が予想と違ったせいだろう。目を上げた嬋玉の表情に、驚きが見える。
屈めていた上体を起こして、流れてきた前髪を無造作にかき上げた。
「たしかに嬋玉殿は蓮に似ている。だが、残念ながらおれは、少しも父上に似ていない」
「――――!」
笑みを交えた一言に、嬋玉の顔色がまともに変わる。その反応が、亮の予想を裏づけた。
嬋玉は、寂しかったのだ。亮に、愛する人の面影を重ね見たかったのかもしれない。
亮の傷心を慰めたく思ったのも、真実だろう。亮は嬋玉に蓮を、嬋玉は亮に王を重ねて、互いに癒し合えると思ったのではないか。
嬋玉らしくもない、弱音。その弱さを晒し、頼ってくれたのだと思えば嬉しくはあった。
けれど、誘いに乗るわけにはいかない。父王の代わりが嫌なのではなかった。自分のためであり、また嬋玉のためでもある。
互いの傷を舐め合っているつもりが、傷口を牙で引き裂くことになりかねないのを、亮は知っていた。
蓮に望まれるまま、心の通わぬ情事を交わしたときの虚しさを思い出す。あのような想いを、嬋玉にはさせたくない。
ようやく自覚した。嬋玉と亮は似ている。愛する相手に手が届かぬことを、自分自身で受け入れてしまったところが。
「それに、おれはまだ嬋玉殿より年上にはなれていない。まだまだ、あなたの手のひらで転がされている子供だからな。嬋玉殿に相応しい男ではない」
「――まぁ」
昔、嬋玉が亮と月龍を煙に巻いた時の台詞を引き合いに出す。冗談めかした口調に、苦いながらも嬋玉の顔にも笑みが戻った。
くすりという笑声のあと、嘆息が続く。
「ごめんなさい、殿下。私、どうかしていたみたい。おかげで正気に戻れました。――ありがとう」
「いやいや、とんでもない。嬋玉殿を我がものとできる好機をふいにしてしまった。惜しいことをしたと、すでに後悔しているところだ」
おどけた仕草で肩を竦めると、嬋玉も悪戯めいた瞳で笑った。