第201話 死んであげる
文字数 1,522文字
疑わずにはいられなかった。
初めは、抱けと言った蓮の声を、そしてそれが幻聴ではないと分かったときには、蓮の気持ちを。
そうやって月龍の気持ちを揺さぶり、嬲っているのだろうとしか思えなかった。
ならば応じられるはずがない。たとえ実を伴わぬ婚姻とはいえ、蓮を大切に想う気持ちだけはわかってほしかった。
けれど重ねた唇から、蓮の情が流れこんでくるような気がした。口づけの合間、わずかに見えた顔には忌避する表情はない。
むしろ、嬉し涙を浮かべているようにすら見えた。
小刻みに、高く鳴り続ける自分の鼓動が聞こえる。
もしかしたら本当に、抱かれることを望んでくれているのかもしれない。
流産以降、真心をこめて接していた。誠意が届いたのではないか――月龍の愛情が、頑なだった蓮の心を開かせたのではないか。
嬉しかった。月龍の想いを信じてくれるのなら――その上で求めてくれるのならば、これからの二人はきっとうまくいく。
くらくらと頭が揺れた。幸福感に身を任せ、成り行きに任せて抱いてしまえたら、どれだけ楽だろう。
思い留まったのは、過去の失敗のせいだった。安易に衝動に身を委ねてしまうのは、あまりにも危険すぎる。
もしかしたらこれも、月龍を試しているだけかもしれない。抱けばすべてが終わる、そのような強迫観念が抜けなかった。
だが迷う月龍に、蓮は微笑みかけてくれた。幸せそうな笑顔を向けてくれたのは、どれくらいぶりだっただろう。
ああ、蓮は許してくれる気になったのか。
今度こそ、喜びに胸が震える。嬉しさのあまり、口元に笑みが滲むのを自覚した。
まさに、そのときだった。
「抱いて下さったら、舌を噛んで死んであげる」
極上の笑みを浮かべた紅唇で、いとも容易く、そして残酷に月龍の心を斬って捨てたのは。
欲に駆られて抱けば、蓮そのものを失ってしまう。月龍の劣情が、蓮を殺すのだと。
蓮は月龍を陥れるだけのために、自分の身と命を投げ出す罠を仕掛けた。
――否、もしかしたら本当に死にたいのかもしれない。
実はなくとも、月龍が夫を名乗るだけで耐え難い屈辱なのではないか。
傍に居ることも、顔を見ることも苦痛で、死んだ方がまだいいと思っているのかもしれない。
間接的にでも手を下させることで、月龍を苦しめることができる。月龍が殺した子供の復讐と、蓮を傷つけたことへの報いを、最も重い形で背負わせられる。
その苦しみを与えられるのが自分だと思ったからこそ、極上の微笑みだったのではないか。
「それが――君の望みか」
ぎり、と噛みしめた奥歯の間で、低く呟く。
感じた喜びが大きかった分、絶望もまた深かった。心臓が、過剰な労働のために悲鳴を上げる。笑顔のまま頷く蓮が、苦痛に拍車をかけた。
今日、感情の制御が効かないと言ったのは本当だった。今日に限ったことではない。例の薬を絶ってからは時折、やけに気が立つときがあった。
医師の范喬が言っていた。直接的な中毒症状は抜けたけれど、油断はできない。反復作用のようなものは残っていて、少なくとも数年は付き合っていかなければならない症状なのだと。
だからそのような傾向が感じられたときは、極力蓮には近づかないように心掛けていた。帰宅しても自室に閉じこもるか、そもそも顔を合わせぬために帰らないことすらあった。
けれど今日はじっとしていられなかった。養子としてもらい受ける子供が見つかった。早く蓮に知らせたかった。
あれだけ子供を欲している蓮だからきっと、喜んでくれる。嬉しそうに笑ってくれる顔を期待してしまうと、居ても立ってもいられなかった。
今にして思えば、あれほど浮足立ってしまったことこそが反復作用のせいだったのかもしれない。