第143話 堕胎
文字数 2,314文字
僥倖を前にしたにしては、浮かぬ蓮の顔が不思議だった。疑問を、率直に口にする。
「どうした。嬉しくないのか。おれ達の子が、産まれるのだぞ」
その可能性を聞かされたとき、月龍は喜びよりも驚きの方が強かった。蓮をそれと同じで、まだ実感が湧いていないのかもしれない。
否、妊婦には身体の具合が悪くなる者も多いと聞く。実際、蓮はずっと臥せっていた。
元々小柄で、年齢も若い。体が妊娠という変調に耐えられず、より強く負担となっているのではないか。
それで喜びを表すにも表せず、身体の辛さの方が前面に見えているのかもしれない。
だがそれにしても、憔悴の色が濃い。これではまるで、悲嘆に暮れているようではないか。
何気なく浮かんだ考えに、はっと息を飲む。
何故、今まで気づかなかった。信じられぬ幸福のために、我を失っていたせいだろうか。
簡単な可能性だ。月龍にとっては至上の喜びではあっても、蓮にとっては違うかもしれない。
今現在、月龍は蓮から見て「愛しい男」ではなかった。むしろ憎悪の対象ではないのか。
そのような男の子供を孕まされて、嬉しいはずがない。
昨夜のことを思い出す。そして今、蓮が口にしようとしていた盃にも目を落とした。
水でも飲もうとしていたのかと思っていたけれど、違った。盃の中身は、なにやらどす黒く、濁った色合いが見て取れた。
――月龍の、予想通りに。
「まさか――堕ろすつもりだったのか」
ぎりっと食いしばった歯の間から、呻きにも似た低い声が洩れる。
そのようなことはないと、否定してほしかった。
水浴びも言葉通り体を洗うためで、盃の液体も体調を整えるための薬だと言ってほしい。
祈りをこめて見つめる先で、蓮の頬が凍りつく。
無言のままの、肯定だった。
心を失いながら、蓮は何故こうも素直なのだろう。
胸を震わせていた感動は一瞬で消え、代わりに訪れたのは激しい絶望だった。
「だから真夜中に冷水を浴び、そして今、そのような怪しげな薬を口にしようと――」
返事を求めた問いかけではない。確かめたくもなかった。
何故そこまで、と思う。
子供を、どれほど小さな命でも愛せる蓮。その蓮が、自らの身に宿った命を消し去ろうとするとは。
そもそも、確実な堕胎などはない。公主の身に危険を及ぼすようなことを、まともな医師が引き受けるとは思えなかった。
ならば薬を授けたのは、闇医者の類いだろう。そのような連中は、人の生死になど構わない。
月龍はそれを、身をもって知っている。
初めに例の薬を処方した医師は、多量のそれを求めた月龍を諫めた。
同じ物を他の医師に頼めば、金を積んだだけで渡してくれた。
どちらが月龍の体を慮っていたのかは、考えるまでもない。
蓮が頼ったのは、おそらく後者だ。
俯く蓮を、これ以上直視できなかった。顔を覗きこむために曲げていた腰を伸ばす。
ぎゅっと顔を顰め、肩に顎をつける月龍のずっと下の方、両の拳が太腿の横で震えていた。
「おれの子を産むのが、それほど嫌か。その命すら厭わないほどに」
考えなければ。衝撃に胸を痛めながらも、必死で頭を巡らせる。
このまま放っておいては、いつ月龍の目を盗んで堕胎しようとするかわからない。なんとしても阻止しなければならなかった。
蓮との子供がほしいというだけではない。不確かな堕胎を試みて、蓮の命、そのものが失われてしまったら。
考えるだけでもぞっとする。それでなくとも出産に危険はつきものなのだから、その確率を蓮自らに上げさせるわけにはいかなかった。
一層のこと、産んでくれと素直に頼んでみようか。いつかのように蓮の足に縋りつき、泣きながら懇願すれば同情を買えるかもしれない。
否、無理だ。いくら蓮が優しかろうと、今更月龍に憐れみをかけてくれるとは思えない。あなたの頼みなど聞きたくないと、むしろ意地にさせてしまうのではないか。
では、今蓮が抱いている月龍への不信を利用した方が可能性はある。
「お前の命など知ったことではないが、子供まで道連れにされてはたまらない」
発する言葉に傷つけられたのは蓮か、それとも月龍自身か。
胸が痛い。引き裂かれそうだ。
蓮のために別れようと決意した、あのときと同じだった。
ふっと顔を上げた蓮から、視線をそらす。
「せっかくの好機を、ふいにしてもらっては困る」
「好機、ですか」
「公主を孕ませるなど、成り上がりのおれとしては上出来だ。もう出世がどうのと、悠長なことは元譲 様も言うまい。おれは晴れて、外戚入り出来る」
そのようなことが目的では、決してないけれど。
「軍の要職にある身としても、跡継ぎができるのは好ましい。それを、お前の一存で殺すと?」
なんという酷い言葉か。
口から吐く毒気に当てられでもしているのか、胃の辺りに不快な熱がたまっていた。
だが、君を愛しているから産んでくれ、などと縋るよりはよほど信憑性がある。たとえそれが掛け値なしの本音だったとしても、「蓮の中の月龍像」を演じる方が肝要だ。
表情は消えたまま、それでも探る鋭さを持った蓮の目が向けられているのを、頬に感じる。
あえて横を向き、冷たい顔を見せなければならない。
もし目を見てしまえば、想いをこめてしまう。信じてはくれなくとも、真意を見抜かれる可能性は出来得る限り廃しておきたかった。
どれくらいの間、蓮の凝視は続いたのだろうか。ふぅ、と吐き出された細い息に、小さな声が乗る。
「――畏まりました」
そうしろと命じられるかと思ったのか、蓮は月龍の目前で盃に入った薬を捨てた。
完全ではないけれど、差し当たっての危機は免れた。ため息を飲みこみながらも、月龍は安堵せざるを得なかった。
「どうした。嬉しくないのか。おれ達の子が、産まれるのだぞ」
その可能性を聞かされたとき、月龍は喜びよりも驚きの方が強かった。蓮をそれと同じで、まだ実感が湧いていないのかもしれない。
否、妊婦には身体の具合が悪くなる者も多いと聞く。実際、蓮はずっと臥せっていた。
元々小柄で、年齢も若い。体が妊娠という変調に耐えられず、より強く負担となっているのではないか。
それで喜びを表すにも表せず、身体の辛さの方が前面に見えているのかもしれない。
だがそれにしても、憔悴の色が濃い。これではまるで、悲嘆に暮れているようではないか。
何気なく浮かんだ考えに、はっと息を飲む。
何故、今まで気づかなかった。信じられぬ幸福のために、我を失っていたせいだろうか。
簡単な可能性だ。月龍にとっては至上の喜びではあっても、蓮にとっては違うかもしれない。
今現在、月龍は蓮から見て「愛しい男」ではなかった。むしろ憎悪の対象ではないのか。
そのような男の子供を孕まされて、嬉しいはずがない。
昨夜のことを思い出す。そして今、蓮が口にしようとしていた盃にも目を落とした。
水でも飲もうとしていたのかと思っていたけれど、違った。盃の中身は、なにやらどす黒く、濁った色合いが見て取れた。
――月龍の、予想通りに。
「まさか――堕ろすつもりだったのか」
ぎりっと食いしばった歯の間から、呻きにも似た低い声が洩れる。
そのようなことはないと、否定してほしかった。
水浴びも言葉通り体を洗うためで、盃の液体も体調を整えるための薬だと言ってほしい。
祈りをこめて見つめる先で、蓮の頬が凍りつく。
無言のままの、肯定だった。
心を失いながら、蓮は何故こうも素直なのだろう。
胸を震わせていた感動は一瞬で消え、代わりに訪れたのは激しい絶望だった。
「だから真夜中に冷水を浴び、そして今、そのような怪しげな薬を口にしようと――」
返事を求めた問いかけではない。確かめたくもなかった。
何故そこまで、と思う。
子供を、どれほど小さな命でも愛せる蓮。その蓮が、自らの身に宿った命を消し去ろうとするとは。
そもそも、確実な堕胎などはない。公主の身に危険を及ぼすようなことを、まともな医師が引き受けるとは思えなかった。
ならば薬を授けたのは、闇医者の類いだろう。そのような連中は、人の生死になど構わない。
月龍はそれを、身をもって知っている。
初めに例の薬を処方した医師は、多量のそれを求めた月龍を諫めた。
同じ物を他の医師に頼めば、金を積んだだけで渡してくれた。
どちらが月龍の体を慮っていたのかは、考えるまでもない。
蓮が頼ったのは、おそらく後者だ。
俯く蓮を、これ以上直視できなかった。顔を覗きこむために曲げていた腰を伸ばす。
ぎゅっと顔を顰め、肩に顎をつける月龍のずっと下の方、両の拳が太腿の横で震えていた。
「おれの子を産むのが、それほど嫌か。その命すら厭わないほどに」
考えなければ。衝撃に胸を痛めながらも、必死で頭を巡らせる。
このまま放っておいては、いつ月龍の目を盗んで堕胎しようとするかわからない。なんとしても阻止しなければならなかった。
蓮との子供がほしいというだけではない。不確かな堕胎を試みて、蓮の命、そのものが失われてしまったら。
考えるだけでもぞっとする。それでなくとも出産に危険はつきものなのだから、その確率を蓮自らに上げさせるわけにはいかなかった。
一層のこと、産んでくれと素直に頼んでみようか。いつかのように蓮の足に縋りつき、泣きながら懇願すれば同情を買えるかもしれない。
否、無理だ。いくら蓮が優しかろうと、今更月龍に憐れみをかけてくれるとは思えない。あなたの頼みなど聞きたくないと、むしろ意地にさせてしまうのではないか。
では、今蓮が抱いている月龍への不信を利用した方が可能性はある。
「お前の命など知ったことではないが、子供まで道連れにされてはたまらない」
発する言葉に傷つけられたのは蓮か、それとも月龍自身か。
胸が痛い。引き裂かれそうだ。
蓮のために別れようと決意した、あのときと同じだった。
ふっと顔を上げた蓮から、視線をそらす。
「せっかくの好機を、ふいにしてもらっては困る」
「好機、ですか」
「公主を孕ませるなど、成り上がりのおれとしては上出来だ。もう出世がどうのと、悠長なことは
そのようなことが目的では、決してないけれど。
「軍の要職にある身としても、跡継ぎができるのは好ましい。それを、お前の一存で殺すと?」
なんという酷い言葉か。
口から吐く毒気に当てられでもしているのか、胃の辺りに不快な熱がたまっていた。
だが、君を愛しているから産んでくれ、などと縋るよりはよほど信憑性がある。たとえそれが掛け値なしの本音だったとしても、「蓮の中の月龍像」を演じる方が肝要だ。
表情は消えたまま、それでも探る鋭さを持った蓮の目が向けられているのを、頬に感じる。
あえて横を向き、冷たい顔を見せなければならない。
もし目を見てしまえば、想いをこめてしまう。信じてはくれなくとも、真意を見抜かれる可能性は出来得る限り廃しておきたかった。
どれくらいの間、蓮の凝視は続いたのだろうか。ふぅ、と吐き出された細い息に、小さな声が乗る。
「――畏まりました」
そうしろと命じられるかと思ったのか、蓮は月龍の目前で盃に入った薬を捨てた。
完全ではないけれど、差し当たっての危機は免れた。ため息を飲みこみながらも、月龍は安堵せざるを得なかった。