第15話 思慕
文字数 2,714文字
眠る亮の髪を、そっと撫でる。
感触は蓮のものと似ているはずなのに、亮の髪には何処か、神聖なものが感じられた。
周囲からはよく、亮と蓮は似ていると言われる。髪質や瞳の色が同じだから、印象が似るのは理解できるが、どうしても蓮には、自分が亮ほどに美しいとは思えなかった。
それほど蓮の目に、亮の美貌は際立って見えている。
幼い頃から、言い聞かされたせいばかりではない。ずっと亮の妻になるのだと――なりたいと、思っていた。
その亮に月龍とのことを薦められて、寂しくないはずはなかった。
だが誰よりも大切だと言ってくれた亮の言葉に、嘘はない。
蓮のことを考えた上で、亮が最も信頼しているであろう親友に任せたいと思ってくれた。それだけでも充分に嬉しかった。
ただ、亮の独断で任された月龍にとっては迷惑だったと思う。
蓮を慕ってくれていると亮から聞かされたことを告げると、案の定驚いた様子だった。頭の回転の早い月龍はすぐに亮の意図を組んで、蓮を受け入れてくれたけれど。
やはり不本意だったのだろう。初めの頃、月龍はいつも不機嫌そうにしていた。
苦虫を噛み潰したような顔に、不安が募る。
それでも、あまり変わらぬ表情の下、ぶっきらぼうな物言いの中にも優しさが見えた。
その優しさに蓮が惹かれていくのと、月龍の態度が少しずつ柔和になっていったのと、どちらが早かっただろうか。
今では互いに、思慕の情を認識できていると思う。
亮を慕う気持ちは消えていないけれど、兄に対する親愛の情へと自然に変化した。でなければ今、これほど穏やかな気持ちで、亮の寝顔を見守れるはずがない。
浮いてきた不思議な感慨に、ふと笑みが洩れる。
長年の想いすら払拭してしまった月龍の威力とは、一体なんなのだろう。瞼の裏に姿を思い描くだけで、胸の内が温かくなってくるような気がした。
早く、会いたい。
思って、ふと気がついた。
いつもならとっくに、月龍が来ている時刻だった。なのに今日はまだ、来ていない。
月龍とて要職にある身だから、毎日会えるわけではないのはわかっている。仕事の都合で遅れるなど、よくあることだ。
だがそのようなときには、必ず従者を遣してくれる。この時間になっても連絡がないのは、初めてだった。
亮が正装をするのは、王に会うときくらいだ。悩み事というのも、王にまつわることだろう。
もしかしたら王朝や軍に関係のある話かもしれない。
だとしたら月龍も今頃、遣いどころではなく対応に追われている可能性もあった。
月龍も、亮のように悩んでいるかもしれない。
かたんと音が聞こえたのは、その時だった。
「月龍」
物音の方向へ目を向けると、ゆっくり入ってくる姿が見えた。ほっとして名を呼ぶ。
呼びかけに、月龍は破顔しない。いつものことだ。
ただ、今日は眉間のシワがより深い。怖いくらいの険しさに、心配が増す。
「今日は遅かったけれど、なにかありましたの?」
「――いや、少し」
少ない言葉に、やはりと思う。曖昧にごまかすような返事は、なにかがあったことの裏返しなのだろう。月龍も亮と同じく、蓮には詳しい話をしないつもりかもしれない。
心配をかけたくないと、配慮してくれる気持ちは嬉しい。だが、月龍が見せる遠慮に、寂しさを覚えるのは事実だった。
月龍の態度は、最初に比べれば随分と柔らかくなったが、丁寧な調子は崩れていない。
蓮のことも、未だ公主と呼ぶ。王子たる亮を呼び捨てにし、ぞんざいな口のきき方もしているから、常から堅苦しい物言いをしているわけではないはずだ。
亮の前にいるときが自然な姿だと言うなら、蓮にも同じように接してほしい。そうすればもっと、距離を縮められる気がするのだけれど。
月龍の様子は、やはりいつもと違うように見受けられた。
眉間に刻まれた皺だけではない。何処か落ち着きがないように見えた。
無言で亮の寝顔を見下ろす――かと思えば目をそらし、蓮に視線を向けたかと思うと、すぐにそらす。
どうかしたのだろうか。横顔を見上げて首を捻り、決まりの悪そうな様子にふと、亮の言葉を思い出す。
くすりと笑みが洩れた。
「もしかして、嫉妬してます?」
問いに、月龍の身が竦む。無言ながら、肯定の返事だった。
落ち着きがなかったのは、亮と蓮の現状をどう理解したものか、また、どう言及しようかと迷っていたせいかもしれない。
なるほど、狂いはしなかったけれど嫉妬はした、ということか。
嬉しいと感じるのは、筋違いかもしれない。けれど悋気を見せるのは、月龍の関心が蓮に向いている証だった。
そう思えば、誇らしい気がしてしまう。
「亮さま、ずっと悩んでらして。眠れないと仰るから、膝をお貸ししたのです。子供の頃、亮さまがよく、こうやって寝かしつけて下さったの。それを思い出して」
「恩返しのつもりで?」
「そう言ってしまうと、少し大仰過ぎる気がしますけど」
笑み含みで言うと、月龍はそうかと嘆息した。安堵の色が見える。
蓮はそっと、起こさないように亮の下から抜け出した。
「亮さまもよくお休みになっていらっしゃいますし、今日はこのまま帰りましょうか」
遠慮は亮に対してだけではなく、月龍にも向けたものだ。なにか問題があって対応に追われているのならば、蓮のことばかりにかかずらわせてしまうのも申し訳ない。
立ち上がろうとした蓮の目の前に、すっと手が差し出された。
え、と向けた視線の先にあった月龍の微笑に、さらに驚く。
立つために手を貸そうとした仕草も、わずかに浮かんだ笑みも、とても自然だった。常の月龍にはもっと、ぎこちなさが残っている。
「それとも――私でよければ、お話を伺うことくらいはできますけど」
いつもとは違う態度が、抱える問題の大きさを物語っている気がした。
亮が蓮の膝枕で眠ったように、月龍も甘えたいと思ってくれたのかもしれない。だとすれば、応えたかった。
軽く目を瞠ったのは、申し出に驚いたからだろう。
考える素振りのあと、月龍はゆっくりと頭を振った。
「ありがたい申し出ですが、あまり引き止めては
蓮には、年の離れた兄がいる。すでに父の後を継ぎ、公爵の地位を就いている、確かに「趙公」ではあるが、なにもそう畏まって呼ぶ必要はない。
将来的には、月龍にとっても義兄となる。
もっと親しんでほしいと思うのだけれど、蓮のことすら公主と呼ぶ月龍には、無理な相談かもしれない。
実直で、月龍らしい物言いに、笑みがこぼれる。
「では、送ってくださいますか?」
いつものように。
小さく付け加える蓮に、月龍はひとつ、無言で頷いた。