第113話 敗色
文字数 1,217文字
伊尹が商に投降した――月龍にはそれほど大きな問題とは思えない。
理由を考え、珍しく言葉にして伝えたところで、亮に失笑される。
「あの男、商では確実に出世するぞ」
「しかし、この夏では――」
「あれを重用しなかったのは、あの色ボケ親父に見る目がなかっただけだ」
呆れとも、疲れともつかぬ色を面に貼りつけて、亮が続ける。
「おれも、あの為人を信用する気にはなれんが、能力は買っていた。あれは希代の軍師になる。天乙が賢君ならば、必ず重用するだろうな」
亮の推察が正しければ、夏の情報は商に流れる。戦が早まるだけではなく、苦戦を強いられるのは明らかだった。
むしろ、敗色の方が強い。
だからか、とようやく悟る。公主の身分のままであれば、王朝の滅亡と無関係ではいられまい。
月龍の妻として身分を隠してしまえば、たとえば月龍が商へ投降したとしても逃げおおせる可能性も高くなる。
そう、亮はすでに負けを見越しているのだ。
そして心配しているのは蓮の身の安全だけ――自分のことは、どう考えているのかはわからない。
「そうなったらおれは、蓮とお前を連れて逃げる。官としてではなくとも、生きる道はある」
恋敵になったとはいえ、亮を見捨てる気はない。蓮はもちろん、三人で生きていくくらいならばなんとでもできる自負はあった。
問題は、そうなってまで蓮がついてきてくれるか、ということだ。趙靖や亮、
どこかでのたれ死にする方がまだいい、そう思われているのではないか。
否、蓮が月龍を嫌っていると知れば、亮もついてこないかもしれない。二人で手を取りあい、月龍を置いていくのではないか。
それはきっと、幻だ。亮は今、目前で気だるげに頬杖をついている。
けれど頻度の上がった薬のせいで、遠ざかっていく蓮と亮の背中が見えた――ような気がした。
「まぁ、そのようなことにならずにすむよう動くのが、おれの役目だがな」
ふふんと笑った亮の顔に、いつもの余裕が少し戻る。その声に、ようやく我に返った。
「――頼んだ」
「任された」
どう口にしたものか迷った挙句の一言に、帰ってきたのは軽口だった。
「お前もな。――蓮を頼む」
目を細めるのは信頼の証。だが月龍は、亮がやったように「任された」と頷くことができなかった。
うんともううんともつかぬ曖昧な返事をして、亮の前を辞する。任された蓮が今、このような顔をしていると知れば、亮は烈火の如く怒り狂うだろう。
この蒼白に染まった、覇気もなにもない表情を見れば。
どれだけ歯の浮くような愛の言葉を並べても、冷たい声で「ありがとうございます」と返されるのみ。
逆に謂れのない難癖で責め立てても、「申し訳ございません」と怯えもせずに口にする。
反応があるのは、身体的な刺激を与えたときだけだった。手を上げたとき、体を重ねたとき――反応は同じ、「苦痛」だ。