第77話 詭弁

文字数 1,754文字

 背後からかかる声に、足を止める。振り返る目に映ったのは、覚えのある女だった。
 美貌を飾る笑みに、月龍はうんざりする。

「どうかなさいましたか、邵様」
「――お前か」

 蓮に下らぬことを吹きこんだ女官。名はたしか、紫玉と言っただろうか。

「なにか用でもあるのか」

 拒絶を示すのに、独創性の欠片もない言葉を投げつける。月龍の態度など最初から予測していたのだろう、紫玉はわざとらしく笑みを刻んだ。

「まぁ、怖いこと。私はただ、邵様のお顔が沈んでいらっしゃるようにお見受けして、心配しただけですのに。気が立っていらっしゃるのね。もしかして、蓮公主とうまくいっていらっしゃらないの?」

 いらぬ世話だ。そもそもその一端を担ったのはお前ではないか。
 怒りのために責め句を口にするのは躊躇われた。女に気を遣ったわけではない。「蓮とうまくいっていない」と認めたくなかった。少なくとも、この女を相手には嫌だった。
 もっとも、無言と鋭さを増した目つきが言葉以上に語っていたらしい。察した紫玉が、さも面白そうに口元を押さえる。

「それはそれは、お気の毒に」

 おどけた物言いが、神経を逆撫でする。強面をさらに険しくして、冷たく見下ろした。

「おれに喧嘩でも売っているつもりか」
「とんでもない。もしそうならば、邵様がさぞ不自由なさっているのではないかと」

 紫玉が、月龍の腕に自らの腕を絡めてくる。豊満な胸が押し当てられて、柔らかな感触が伝わってきた。
 露骨な誘惑に、顔を顰める。汚らわしいと払いのけるのは容易だが、ふと、思い留まった。
 たしかに不自由はしている。蓮へと欲求を向けられないのならば、他の女で満たすのもひとつの手段ではないか。

 月龍にとって、肉体関係とは必ずしも恋慕の延長上にあるわけではない。蓮と出会う以前にはそのような感情すら理解できず、身体的な満足を得る手段でしかなかった。感情が伴わない分、蓮への裏切りとの認識は薄い。

 そもそも蓮に嫉妬心はあるのだろうか。傍に居させてくれとは言うが、束縛などはされたことがない。
 月龍の以前の女関係を聞いても、顔色ひとつ変えなかった。滅多にあることではないが、他の女、たとえば嬋玉の美貌を褒めても、にこにこしながら聞いている。
 月龍など、他の男が蓮の視界を横切っただけでも嫉妬せずにはいられないのに。

 ――そうだ。蓮は月龍のその性格を知っている上で、亮と寝た。

 月龍の命令だとは理解している。けれど行為自体は蓮も楽しんでいたのではなかったか。
 ならば逆も同じだ。蓮は月龍を想ってくれていても抱かれたくはないのだろう。蓮にとって苦痛と不快を伴う行為で悲しませてしまわないために――蓮のために、他の女で欲だけを満たす。
 そうして蓮に対しては清らかに接する方が、彼女も喜ぶのではないか。

 詭弁だ、言い訳だとは自分でも思う。けれどどうしても、引っかかっていることがある。
 蓮自身は月龍のためだったと思いこんでいる。そのせいではあるのだろうが、亮と寝たことを――月龍を裏切ったことを、謝らないのだ。あれだけなんでもないことですぐに謝罪を口にするくせに、だ。
 同じ目に合えばいいと思う訳ではない。むしろ欠片ほどの嫉妬すらしてくれない可能性もある。

 ――ならば、構わないのではないか。

 甘い考えに傾いたことに気付いたのかもしれない。紫玉が嫣然と微笑む。

「私は、邵様のお役に立てると思いますが」

 改めて紫玉に目を向ける。女性としてはやや長身で、細くしなやかな腰つきや豊かな胸は官能的だった。他よりも多くこの女と関係したのも、身体的特徴が好みに合っていたからだった。

「――役に立たんことはない」

 元来自分には甘い月龍のこと。これまでの禁欲生活で、忍耐力はかなり削られていた。目前に餌を吊るされれば、手も出る。

「それでお前は、どのような見返りを望む?」
「見返りだなんて。私は邵様と楽しめるだけで充分ですわ」

 他にはなにもいらないほど愛している、というのではない。望みはただの遊びだから安心して応じろと言っているのだろう。

「――わかった」

 軽い嘆息に、承諾の返事を乗せる。紫玉は月龍の手を取ると、人目のつかぬ所へと向かって歩き始めた。


 ――莫迦な男。
 侮蔑を込めた笑みが紫玉の面を飾ったことに、月龍は気づかなかった。
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登場人物紹介

月龍《ユエルン》

古代中国、夏王朝の武官。

武に関しては並ぶ者なきと評される腕前。

無愛想で人の機微に疎い。

有力な宦官の孫として養子に入る。出生に秘密あり。

蓮《レン》

王の姪。王子の従妹。

穏やかだけれど型破りなところのある、小柄な少女。

月龍との出会いで、人生が一変する。


亮《リーアン》

夏王朝の第一王位継承者。

蓮のいとこ、月龍の親友。

亮を出産時に母が死亡し、妃を溺愛していた父王からは仇のように嫌われている。

絶世を冠するほどの美青年。頭脳明晰。

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