第208話 変化
文字数 1,985文字
「少しいいだろうか」
遠慮気味に声をかけられるも、寒梅の答えなど最初から決まっていた。雇われた身で、否と言えるはずもない。
与えられた離れは、元々家族で住んでいた家よりも広い。厨もあるので、湯を沸かしに母屋へ行く必要もなく、茶を淹れられた。
とはいえ、寒梅ひとり用に整えられた住まいだ。卓の前に榻はひとつしかない。無論月龍にそちらを薦め、寒梅自身は向かいに正座する。
ちらりと榻に目を落としたから、存在に気づかなかったわけではないだろう。なのにそれに座ろうとはせず、床に直接胡坐をかく。
月龍よりもさらに低い位置になるように叩頭すると、苦笑された。
「そう畏まらないでくれ。おれと君は公主の下で働く、いわば同輩のようなものだから」
公主の下で働くと言うけれど、月龍は夫ではないのか。下女と同じ立場のはずがない。
「いや、彼女の中ではおれの方が君よりも低い所にあるのだろうが」
ぼそりと告げられるのは、あり得ないことだ。まさか、との思いにハッと顔を上げると、月龍は眉を歪ませた悲しげな笑顔のままだった。
「公主はおれを嫌っているから」
「そのようなことは……」
ない、とは言い切れなかった。愛情深い眼差しで見つめる月龍とは対照的に、冷淡そのもので見返す公主の目が思い出される。嫌っていると言われれば、たしかにそのようにしか見えない。
何故なのだろう。公主は子を失ったと言うが、その子の父親は月龍ではないのか。ならばきっと、愛し合っていたはずなのに。
「――まぁ、とにかく気を楽にしてくれ」
寒梅が返答に詰まったのを見て取ったのか、月龍は話題をそう締めくくった。
「君に聞きたかったのは、日中の公主の様子だ」
優しい顔で寒梅が淹れたお茶を一口飲んで、月龍が言う。
「おれが不在の間、なにをしていたのか――言動や表情など、聞かせてほしい」
「――ああ」
意図せず、落胆が洩れる。
月龍は終始、公主のことを気にかけている。彼女以外の事柄には一切興味がないように見えた。
――そう、わかっていたはずなのに、彼が寒梅を追って離れまでやって来たとき、あらぬ期待を抱いていた自分に気づかされた。
ため息めいた返事のあと、我に返る。
「申し訳ございません。大変失礼致しました」
雇い主に対する返答としては、不適切この上なかった。気の短い武官なら、手打ちまでとはいかずとも、殴られていてもおかしくない。
「そう気にしないでくれ、と言っている」
叩頭する寒梅に、月龍は怒った素振りも見せない。
「女に頭を下げられるのは好きではない」
そっと目を上げて覗き見た月龍の顔には、苦いものが浮かんでいる。
「――蓮の泣き顔を思い出す」
「え……?」
「いや、なんでもない」
聞き取れなくて問い返すと、月龍は目を伏せ、軽く首を左右する。
「それで? 公主の様子はどうだっただろうか」
「どう、と言われましても……」
正直に言えば、話すことなどなにもない。
「本日は一日中、お庭を眺めておいででした」
なにがそれほど楽しいのかと思うほど、身動ぎせずに庭を見つめていた。それも無表情のまま、虚ろな瞳で、だ。
失礼ではあるが、気が違っているのかと見えてしまう。
しかもそれは今日に限ったことではない。昨日も一昨日も――寒梅に家事を任せてくれるようになってからは、毎日変わらぬ様子だった。
「そうか」
落ちた嘆息に、寂しそうな色が見える。
――けれど気のせいだろうか。うつむいた口の端が、ほんのり上がっている。悲しさを誤魔化すためかもしれないが、安堵の笑みにも見えて。
否、錯乱もせず、自傷に走ったりしない様子だけでも安心できるということか。
「なにか話をしたりは?」
「いえ、なにも……」
お食事の用意ができました、と声をかけたら、「ありがとう」と返事をくれる。他には声すら聴いていない。振り向いてもくれるけれど目も合わない状況では、報告できることはなかった。
そう伝えるとまた、月龍は「そうか」と俯くように頷く。わかった、ありがとう、と笑顔を見せて、席を立って去って行った。
本当にただ、公主のことを訊ねられただけだった。「ここにはもう慣れたか」とか「なにか不自由はないか」だとか、少しくらいは寒梅のことを気にかけてくれてもいいのに。
そこまで考えて、はっとなる。この環境を与えられるだけでも、充分恵まれているはずだ。初めはそれだけで感激していたのに、なんと行き過ぎた望みを抱いてしまったのか。
人は知らず識らずの内に贅沢になる。気をつけなければと、戒めをこめて胸に刻み込む。
そのつもりだったのに。
どこかで期待したり、いい気になったりしていたのだろうか。そしてそのような心持ちが、表に出ていたのかもしれない。
初めて訪ねられて以降、月龍はほぼ毎日のように公主の様子を聞きに来るようになった。十日ほどそれが続いたあと、公主の様子に変化が訪れた。