第162話 感謝
文字数 2,519文字
「蒼龍か」
軽く笑うように、息を吐く。
宿した子供の父親だった男――蓮が、愛しく想う相手。
一途な蓮は、彼を想って亮を断ったのか。
「――なにか誤解があるようですが」
前置きは、やはり硬い声でなされた。
「亮さまは、私以外の女性はいらないと仰って下さいました。けれど――亮さまには跡を継ぐ子が必要です」
眉間にしわを寄せ、頬を強張らせてはいたけれど、蓮は調子を崩さぬまま口にする。
「たとえ朝廷が滅んだとしても、王家直系の血を絶やすわけにはいきません。だとすれば、私では用を成しませんから」
静かに語る蓮を前に、月龍は口を開くこともできなかった。
范喬はもう、蓮が子を生せぬ可能性が高いことを本人に告げたのか。
何故、と思う。蓮に知らせる必要はないはずだ。伝えるにしてももっと、後からでよかったのではないか。悲しみを上塗りさせたのか、と。
もっとも、怒りを范喬に向けるのは筋違いだ。彼は恩人である。そして、善人だった。その范喬が告げたのなら、なにか理由があるのだろう。
絶句する月龍をほんのわずか見上げて、再び目を落とす。
「蒼龍も同じです。あの方も薛家の跡取りですから」
辛いはずの言葉を告げているのに、蓮は声色一つ変えない。
けれど、感情を見せず、月龍の言いなりになっていた頃とは様子が違う。無気力な印象はなく、芯が通ったような、何処か凛々しささえ感じられた。
火傷しそうなほどの冷たさを纏いながらも、蓮の本質は変わらない。亮や蒼龍の幸せを願うからこそ身を引くことを決めたのは、心根の優しさ故だった。
「では――君は、これからどうするつもりだ」
愚問だと気づいたのは、口にしたあとだった。
「――私に、それを尋ねるの?」
案の定、蓮からの返事は冷たい。
考えるまでもない、趙靖の元に戻るのだ。
蓮が怪我をした理由を、亮はどう伝えたのだろう。事実そのものを知れば、趙靖もここへ乗りこんでくるはずだ。蓮と月龍を引き裂くのは目に見えている。
蓮を動かせないのならば、月龍を引きずり出せばすむ話だ。
否、公主への暴行なのだから、その場で斬り殺されても当然ですらある。
そうならないのは、事実が伏せられているからに他ならない。絶望を味わわせるためにも殺さないとも言っていたから、亮が取り繕ったのだろう。
趙靖の元に戻れば、蓮もきっと真実を告げる。
それを知った趙靖に罰せられるのを恐れているのではない。蓮と引き離されるくらいならば、いっそうのこと殺してほしいくらいだった。
「ここに、います」
黙り込む月龍に、深いため息と共に蓮が吐き出す。
はっと目を上げた。
俯いていた月龍の顔でも見ていたのか。一瞬だけ視線は絡んだものの、蓮はすぐに横を向く。
「兄さまの元に戻ることも考えました。けれどそうしたら、あなたは私を忘れるでしょう。手にかけた子供のことも。そしていずれは――何処か、諸侯の娘を娶って、子をもうける」
淡々と言を紡いでいた蓮が、きりっと唇をかみしめる。
「そんなの、許せない」
声が、震えていた。「許せない」その一言に、万感の思いが込められているようだった。
「だから、ここにいます。亮さまや兄さまの手前、私を捨てたりできないでしょう?」
蓮は青白い顔で、腫れた口元をかすかに吊り上げた。
「私の幸せは諦めました。でも、あなたも一緒よ。あなたの血も、あなた限りで絶えるの」
血筋が絶えるのは、忌避すべきことではある。蓮のように特別な家系に身を置いていれば、より強くそう思うのかもしれない。
月龍にとっては、どうでもいいことだ。そもそも身元が判明したのもつい、一年ほど前のこと。家がどうなろうと子孫が絶えようと、なんの関係もない。
蓮は月龍の心情など知らず、不幸の源になってやるのだという消極的な望みのためだけにかすかな笑みを洩らしたのだ。
だが、それにしても蓮はなにを言っているのだろう。月龍が他の女と結婚する、まして蓮を忘れるなどあるはずがない。
亮や趙靖の目を気にしているわけでも、罪悪感の問題でもなかった。
月龍が愛しているのは、蓮だけだった。彼女以外の誰を愛せと言うのだろう。
この気持ちを、蓮に話すべきなのはわかっていた。そうしたらきっと、残りの人生を費やしてまで排他的な望みを叶えようとはしない。
離れることこそ、もっとも月龍を不幸にすると知れば、安心して捨てることができる。
――けれど。
「ならば、ここに居てくれるのか。おれの傍に……」
愕然と呟いたのは、身勝手な言葉だった。
なんと利己的なことか。自身への嫌悪を抱きながらも、感情が喜びに傾くのを隠せない。
恍然とした目つきに気づいたのか、蓮が戸惑うような、怪訝そうな表情で振り返る。
「誤解なさらないで、私は――」
「わかっている。おれに復讐するために残ると言っているのだろう」
蓮を遮る、奇妙に落ち着いた声と心境を自覚する。笑みも浮いているかもしれない。
「――それでもいい。君が傍に居てくれるなら」
それ以上のことを望む気は、もう残っていない。
愛されることを諦めてしまえば、これほど楽になれるのか。
だがその呟きに、蓮の顔が凍りつく。
「それは――どういう意味ですか」
月龍が蓮を愛しているのなら、彼女には留まる理由がなくなる。承知しているから、確かめたく思うのは道理だった。
だから、曖昧に笑う。
「とにかく、今は体を治す方が先決だ。――食べてくれ」
匙で粥をすくって、蓮の口元に運ぶ。月龍の瞳に映る誤魔化しの色を睨みつけていた蓮は、やがて諦めたようにそれを口にした。
月龍はふっと、安堵のため息を吐く。
「――ありがとう」
ここにいると言ってくれたこと、そして月龍の手を受け入れてくれたこと、双方への感謝だった。
月龍が刻んだ笑みから、蓮はまた目をそらす。
嫌われている自覚はあった。それでもなお顔を背けられると、胸が痛む。
妙な疲労感が、どっと押し寄せてきた。
そもそも月龍の体も衰弱している。本来であれば、介護人が必要な身だった。
それを気力だけで持ちこたえているのだから、精神がくじけるとその分、疲労が直接体を襲う。
辛さを蓮の目から隠すために、顔の表面だけで笑みの形を取り繕った。