第86話 人文主義は国家の歴史や文化を重視する

文字数 1,467文字

 放課後、部室についた僕は、窓を開けた。
「ああ。今年ももうすぐ夏だなぁ」

 説明台詞まで口に出してしまう僕は、窓の外からの新鮮な空気を吸い込み、夏の到来を待ち焦がれていた。
 だって、僕、高校二年生の夏だよ。
 なにかあるといいなぁ、という期待が高まるのだ。

 部室にはまだ誰も来ていない。
 一人きりで、昂ぶっているのだった。


「でも、受験を考えたら、部活、無駄なのかなぁ」
 ちょっと心配になってしまう。


「そんなこと、ないさ」

 いつの間にか、開けっぱなしの扉から入ってきたのは、萌木部長だった。
「非合理的かもしれないが、な」

「部長は、『勉強の役に立つかもよ』って言わないんですね、文芸部を」

「役に立つには、合理性に欠ける」

「そ、そうですか……」

「だが、この非合理性は、〈機械〉にはできないことだ。〈機械〉は、合理性のあることが大得意だ」

「機械ですもんね」

「まあ、そのトートロジー的な理解で大丈夫だろう。これからシンギュラリティ、日本語で『技術的特異点』というのだが、それが訪れ、機械と人間が一緒に仕事することを考えてみろ。機械の得意とするもので機械に勝つのは無理がある。だとしたら、無駄に思えるような非合理的な事柄から学んだ方が賢いやり方でもあるだろう」

「そうですか?」

「合理性のフレームがあった場合、機械は〈最短距離でゴールを目指す〉だろう。でも、その明確なゴールがすべてなのか? それにそのフレームにゴールがない場合、どうなるか」

「自己増殖する『横浜SF』みたいな奴になるのかなぁ」

「ゴールがない分野、それこそ判断基準が曖昧な部分でのクリエイティビティが、つまり非合理性が、人間に分があるものだとは思わないか?」

 分がある、とはもちろん、情勢が有利である、優勢である、うまくいきそうな具合である、といった意味で用いられる表現のことを指す。

「つまり、これからの社会で有効なのは、人間がやるけど機械はしないような〈無駄〉なこと、言い換えれば〈非合理的〉なことだ、というわけですね」


「そうなるな」

「と、いうことは」

「そう。文学部は必要なのか、の問題だ。〈必要じゃないからこそ、必要だ〉という説明もあり得る」



「それだけじゃないわよ」

 現れて開口一番、佐々山さんが言い切った。

「人文主義は国家の歴史や文化を重視する。具体例を出すと、マイケル・サンデルがいう意味でのコミュニタリアンね。で、その人文主義は潔癖主義に陥ることもある。一方のリバタリアンは利益の最大化を目指す、一種の快楽主義になる。歴史や伝統へ敬意を払いつつ、潔癖がヘイトにならないように舵取りできるようになるのが、これからは重要になっていくはずよ」

「ん? 批判も含まれるとわかんないけど、つまり文系の、人文主義は国家の歴史や文化を重視するってことだね」

 僕がそう応じると、部長も口を開いた。


「郷土愛というか、パトリオティズムにも人文主義が必要だ。パトリオティズムとナショナリズムは違うから、注意だが、な。土地に思い入れがないなら、人々の流動性はさらに加速されるだろう。見返りだってせずに土地を捨てるだろう」


 うーむ。じゃあ、僕らがやっているような分野もまた、大切だ、ということだ。
 でも、それは全然合理的ではない、ということか。
 言い換えれば〈割り切れない〉なにか、なんだな。


 僕は開けた窓から、校庭を眺める。
「郷土……なぁ」




〈了〉
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