第96話 コンプレックス

文字数 845文字

「僕は遅筆なんですよぉ」

 僕は机に突っ伏して、遅筆な自分に文句を言った。

 部長はそんな僕を見ていじわるな顔をする。
「山田。太宰治は一日で原稿用紙2、3枚のペースだということを自分で書いていたぞ」


「え?そうなんですか?」

「そうなんだ。書くの、早くはないよなぁ。でも、昔の文豪って、そんなもんだぞ。ワープロもない時代だからな。タイプライターで書く外国と事情が違った」

「ふーむ」

「大江健三郎は、午前は執筆して午後は読書に費やす、だったかな。やはり自分で書いている。澁澤龍彦も、同様なスケジュールだったようだ」

 と、そこに佐々山さん。
「現代の作家は、午後か午前かのいっぱいを使ってスポーツジムに通って、残りの半分の時間で執筆することも多いのよ。具体的に言うと、古川日出男さんね」

「そうだったのか」
 僕はびっくりする。スポーツジムに通う作家、というタイプがいる、ということに。
 それに、あの文豪たちが一日数枚しか書かないことにも。

 そこで三島由紀夫を思い出す。

「身体を鍛えたの、三島だけじゃないんですね」

「あら。三島はボディビルをやっていたの。つまり、『他人に見せる筋肉』をつくったの。スポーツマンとは、ちょっと違うわね」

 佐々山さんの言葉に、部長が続く。

「世界一周旅行をしてギリシアに立ち寄ったことが、ボディビルをするきっかけとなったらしい。自分がよわっちい身体であることにコンプレックスがあったのは『仮面の告白』を読めばわかるし、『金閣寺』は、美しさへのコンプレックスの話だった。それを乗り越えようとしたのだな」



「なるほどなぁ」
 僕は感心してしまった。
「コンプレックスの克服、かぁ」


僕は、部長と佐々山さんに向けて言う。
「コンプレックスが克服できたら、なんて良いのだろう」


 部長はそれに対し、
「己を知って、自分が動く方向性を早く見極めることだな」
 と、答えた。


「己を知る、か……」






〈了〉
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