第93話 ぶんぶんがくがく:4(下)

文字数 2,144文字

 たらこスパゲティを食べ終えた月天と、カレーを平らげたおれが、水を飲む。
 追加で珈琲を頼み、話の続きに移る。


「印刷技術があり、宗教改革があった。カルヴィニストの予定説は内面的孤独化を生み、それは人々が〈合理的な思考〉でそれぞれが考える〈理性〉を育み、呪術的な世界観から解放させた。働くということは神の道具として、また、神の栄光のために働くことである、という世俗内禁欲をもたらした。それは、〈産業革命〉を動かす精神的支柱となった。この、近代西洋的理性を〈脱呪術化〉と呼ぶことになる。これが、前回までのアウトラインだ」


「青島もそういうの好きだなぁ。今のそのアウトラインが正しい解釈かは、おれにはちょっとわからねぇが、言いたいこたぁわかる。で、ここからスタートなんだな」


「〈人間中心〉から〈脱人間中心〉の世界観へ。それは〈再呪術化〉と言えるだろう。次はそこだぜ」

「ポスト構造主義の連中はだいたい〈脱理性〉的なところがあるよな。フーコーやドゥルーズ&ガタリ、それにデリダだってそうだ。アプローチは違うが、言ってることは……」


「そう。ハーバーマスの本のタイトルで『近代 未完のプロジェクト』ってのがあるのを思い出せばいい。〈近代〉を象徴していたはずの〈理性〉が絶対視された時代なんて、ありはしなかった。だからこそ、近代は、〈未完のプロジェクト〉だった。まあ、この本はそういう内容の本だってわけでもないんだが」

「その脱人間中心の世界ってのは、科学万能な考え方と反した意識を持つってことなんだよな。しばらく前に言ったけど、それは少し、おれも囓ったぜ」

「月天も読んだなら話はざっくり語ることにしよう。科学、というより、そのものずばり〈機械〉だな。AI的な、〈機械論的意識〉。そこからの自由。自分でがんじがらめにしてしまっている、そのパーソナリティの束縛から自由になる、ということ。それが〈再呪術化〉であり、その〈呪術〉ってのは、〈参加する意識〉と言い換えられるんだ」

「自分のパーソナリティを束縛してそうなのは、〈合理性〉だな。機械は『超』がつくほどに〈合理性〉を追求する」

「機械的な意識は、ありもしないような、客観的現実があると想定して、考え、動く。でも、そんなもん、ないんだ。だから、それは自己分裂に陥って、『引き裂かれた自己』になる」


「R.D.レイン、……だな」

「ああ。おれがおれなりの言葉で『引き裂かれた自己』をまとめたノートがある。それにおれはこう書いた。『見られたい。けど、見られたらつらい。見られたくない。けど、見られないのはつらい。その思考に陥ったとき、心の防衛機能が発動する。防衛機能は偽りの自己、内的自己へのひきこもりをつくりだす。自己(内部)と世界(外部)の境界にある〈肉体〉の感覚はそれにより溶け出して、正常な自己感覚を崩壊させる。そうするとどうなるかというと、内面世界が肥大化し、スキゾイドになる』。おれの書いたノートにはそうまとめてある。これがおれの解釈による〈引き裂かれた自己〉の実態だ、というわけだ。R.D.レインのその本はもちろん、それで終わるわけじゃないが」


「ふーん。じゃあ、引き裂かれた自己をどう乗り越える?」


「この機械論的意識が想定する〈文脈〉を〈横断〉し、人間・ほかの動植物・無機物・事物の関係の中に生じる〈精神〉を捉える。ここで言う〈精神〉とはひとののーみそのなかに潜んでいるものではなく、諸現象が結びつくネットワークが〈帯びる〉もので、〈自我〉は、そのシステムの一部にしか過ぎない、と仮定したものだ。その〈精神〉を捉える〈自我〉で、より恒常性を持ったシステムの一部にしか過ぎないと〈認識〉する。認識することで、自分のパーソナリティの束縛から自由になる、という、そういう話だ」



「おう。『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』の読解のようにも聞こえるな、こりゃ。付け加えて〈文脈〉ってのはラカン的だしな」


「〈横断〉ていうのも〈遊牧的〉とも言えるし、スキゾとパラノの〈スキゾ的〉とも言える。または、ツリー的なネットワークに対するリゾーム的なネットワークの話にも思えるな」

「要するに、自分のパーソナリティという〈ある種の幻想〉の〈束縛〉からの〈解放〉、それが『再呪術化』だ、ってわけだ」


「そうなるな。そして、参加する意識、と呼んだのは、ミメーシス……つまり、言い換えればイデアの模倣、再現、それを必要不可欠とするという話なんだが、月天に先に〈横断〉の話をされたから、そこはすっ飛ばしても理解はしてくれてるだろうとおれは仮定するよ」


「込み入った話だが」

 月天は店内の奥を見る。
 ちょうどウェイトレスがトレンチを持って奥の方から歩いてくる。


「まあ、敵の輪郭が掴めたような気がするぜ」




 ウェイトレスが珈琲を運んできて、テーブルに置いて去って行った。


 おれはシュガーを入れないで、ブラックのまま、熱い珈琲を飲む。

 思ったより、苦くない。


 苦くないな、とおれは思った。


 確かに、ここで香りを楽しむ余裕はなかったけれども。






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