第82話 雨が止まない、こんな日の約束は

文字数 1,651文字

 移動教室の時間だ。生物の授業を受けに、おれは渡り廊下をひとりで歩く。

 生物の教科書とノートその他文房具を持って。

 渡り廊下の外は雨だ。

 今日は屋上で食事はとれないな、とおれは思いながら、歩く。
 生物のある校舎に入り、生物室のある三階まで上ろうとすると、階段の踊り場でいきなり背後からタックルされた。
 タックルで生物の教科書を奪っていったのは、杜若水姫(かきつばたみずき)である。

「水姫……おまえ」

 ひとつ上の踊り場で仁王立ちする水姫。

「べーっ、だ。萌木の教科書もらっちゃうもんねー。欲しかったらあたしの言うことを聞くのだ、萌木!」
「なに、そんなガキみたいなことを……。返せよ、教科書を」

 雨の日特有の強風が吹き、水姫の、校則を守ってるとは言えなそうな短いスカートがめくれあがる。

 素早い動作で下着が見えないように、スカートを押さえる水姫。
 おれの教科書が廊下の床に落ちる。

「見たでしょ」

「見てない」

「でりゃーーーー!」

「ぐおっ!」

 ひとつ上の踊り場から跳び蹴りをしてくる水姫。
 ぱんつはもう丸見えの攻撃だ。
 本末転倒なんじゃないか?

 が、とりあえず攻撃を躱す。

「ほんぎゃー!」

 体勢が崩れて、おれの踊り場で着地失敗、転がって階段を落ちていく水姫。


 二階の階段上り下り口で転ぶのが終わる。

「おまえは一体、なにがしたいんだ、水姫」

 ぴょん、と飛び跳ね、起きる水姫は、制服に床の埃がたくさん付着してしまっていた。
 おれはため息を吐き、それから水姫のところまで行き、制服についた埃を手で払ってやる。

「きゃっ! どこ触ってんのよ! このバカぁ!」

 足蹴りが繰り出される。
 だから下着丸見えだってば。

 蹴りを避けると、おれは無言で階段をあがり、落ちている自分の生物の教科書を拾う。

「萌木。あんたはなんで小説を書いているの? 先輩たちに置いていかれちゃったじゃない。追いつけるとは限らないわよ」

 クスッと笑みが出てしまう。

「誰かとの競争で書いているわけじゃないさ。確かに、焦りはあるかもしれないが、な」

「強がり言っちゃってー。女の子のぬくもりとか、欲しいんじゃないの、寂しくて」

「ぬくもり? 誰のだよ」

 視線が泳ぐ水姫。

「あ、あ、あー、えーっと。あたし、とかぁ?」

「思い切り蹴り技を繰り出す杜若水姫に、ぬくもりがある、とおまえは言うのか?」

「うー。本人に言うことかぁ、それ。これだから文芸バカは!」

「文芸バカには、さっぱりわからないさ」

「らーめん!」

「らーめん?」

「今度、らーめんをおごりなさいよぉ、萌木ィ!」

「別に良いが」

「ちょろいわね!」

「ちょろいかもな」

「あんた、他の子にもこんな感じなんでしょ」

「そんなこと、ないさ」

「じゃ。約束だからね」

「ああ。そうだな」

「言いたかったの、それだけだから」

「なんで教科書を奪おうとしたんだ、おまえは。飛ぶし蹴るし」

「ふーん、あんたが見たあたしの下着の代償は高くつくからねー」

「だから、意味がわからない。説明になってないぞ」

「ぱんつ代をらーめんとかで払え、萌木」

「なんだよ、『とか』って……」

「うひひ、デートのお誘いオーケーじゃん! あたし、できる子!」

「なーに一人でぶつぶつ言ってるんだ?」

「いーからいーから、にしし…………」

 腕時計を見るおれは、チャイムがもうすぐなのに気づく。

「じゃーな。授業へ向かう。つづきはあとで話そう」

「そうね」


 おれは生物室へ向けてダッシュする。
 廊下を走るのは厳禁だが、まあ、仕方ない。

 おれは水姫をその場に置いて、駆けていく。


 らーめん、か。久しく食べてないな。
 それも良いだろう。


 雨が止まない、こんな日の約束は、なんだか特別な気がしてしまうのは、なぜだろうか。



〈了〉
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