第124話 聖の不在と不在ゆえの聖(下)

文字数 1,792文字

 部長は言う。

「サドには非存在に関する四つのテーゼがある。それは〈神は存在しない〉、〈魂は存在しない〉、〈犯罪は存在しない〉、〈自然は存在しない〉、というテーゼだった」

 だが、と部長は言う。
「神は存在しない、と語るわけではないのだ、サドは」

「ん? どういうことですか?」
 と、僕。

「神は邪悪である。神は邪悪なのだから、つまり一般に流布している〈全能で限りなく善良な神〉はおらず、〈邪悪〉だということと矛盾している。よって、〈神は存在しない〉……と、サドは言う」

 佐々山さんが補足する。
「〈神は邪悪である〉ということがサドの中では〈真理〉で、それを前提に考えると、〈一般のひとが思う神〉なるものは存在しない、ということね」

「そうだ」
 頷く部長。
「四つのテーゼのほかも〈邪悪であるが故に存在しない〉という論を、サドは展開する。神は邪悪であればあるほど存在しなくなる、とサドは考える。じゃあ、神の邪悪さ、神を邪悪たらしめているのはなにか、というと、さっき話したそれだ。〈美徳はつねに罰せられ、悪徳はつねに報酬を受け〉る〈現実〉という〈真理〉だ。じゃあ、その〈真理〉をつくっているのは誰か、というと、サドが描き出すサドのその仲間……サドが〈リベルタン〉と呼んでいた人々だ。サドは言う。〈リベルタンとは受肉した神の邪悪さである〉と。神を邪悪にさせているのは、リベルタンたちが存在し、彼らが、美徳が迫害されるその瞬間に悪徳を勝利させることである、とな」

 青島くんが、
「歪んでるなー。さすが、サディズムの語源になった人物だわ。ははっ」
 と、空笑いする。

 部長が締めくくるように言う。
「ここで、フーコーは述べる。真理と欲望の結びつきは、奇怪な空想の怪物性を実現させるが、それによって神や自然や、あるいは法や魂という奇怪な空想はますます怪物的になる。つまり、ますます〈存在しなくなる〉。それらは存在しなければ存在しないほど〈邪悪〉になる。それが繰り返されるわけで、神は完全なる沈黙のうちに沈み込むこともなければ欲望の地平から消え去ることもない。神の不在は、言説の中、欲望の中で、それぞれの瞬間ごとに実現される、と」

 青島くんは言う。
「なるほどなー。そりゃ、こんなひとの小説を翻訳した澁澤龍彦は裁判にかけられるわけだよ」

「裁判?」
 僕が頭にはてなマークを浮かべると青島くんは、
「サド裁判。1961年、わいせつ文書販売および同所持の容疑で、澁澤は被告人になったんすよ。澁澤龍彦は、マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』を翻訳し、出版して、その本には性描写が含まれており、これがわいせつ物頒布等の罪に問われた、って名目になってる。要するに〈過激すぎる書物〉だ、ってことですよね、部長」

「この裁判。埴谷雄高・遠藤周作・白井健三郎が特別弁護人、大岡昇平・吉本隆明・大江健三郎・奥野健男・栗田勇・森本和夫などが弁護側証人となったことで有名だ。当時の文豪オールスター勢ぞろい、みたいな様相を呈していたらしい」
 と、部長は返す。

「めちゃくちゃだ……」
 と、僕が言う。


 佐々山さんが僕に言う。
「さっき、わたし、言ったじゃない。〈書かないで済むなら、書かない方が良いわ。書く人間は、書かざるを得ない人間。そうじゃないなら絶対に面白半分で書いちゃダメ〉ってね。澁澤は、〈書かざるを得なかった〉側の、……要するに〈文学者〉だったのよ。それこそサルトルがジュネを〈聖ジュネ〉として描き出してしまったように、澁澤もまた、サドを〈反転した聖〉と見做した、ってこと」


「神話に接続する物語は数多あるが、ここまでその〈聖〉と〈穢〉を反転させ、その思考に忠実になって小説を書き続けた奴はいない。サドが凄い奴なのだけは確かだし、澁澤は日本でサドを翻訳し、紹介したかったんだ。文学の外側にいたら、この感覚はわからないし、危険視されるのも当然だ。文学の作用で麻痺してしまっているのが、サドが言うところの〈文人〉なのかもしれないな」
 萌木部長はそう言うと、
「じゃ、今日も部活動にいそしむとしようか。夏休みはみんなで文集をつくるぞ。覚悟しておけ」
 と、話題を現実に引き戻した。


 僕らは、果たして麻痺しているのだろうか。
 それとも、悪徳の栄えこそが真理で、麻痺していてなにも見えていないのは世間の方なのだろうか。
 僕はふと、そんなことを思ったのだった。




(了)
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