第109話 固有名(上)
文字数 1,583文字
夏休みの部活動の最初の活動は、部室の大掃除だった。
掃除の途中、棚にあった、埃をかぶった昔の部誌や部活の合同誌というタイプの同人誌があったので、そのページを、おれはめくった。
今ではこの学校の文芸部出身作家として知られている作家名がずらーっと並んでいて、おれは目次を見るだけでびっくりする。
「目が泳いでいるぜ、青島」
一緒に掃除していた月天がおれに声をかける。
月天は雑巾で棚の埃を拭いている。
「んなぁ、月天。我が母校であるここは、作家育成でもやってたのかと勘違いするほどプロになった先輩たちが多い。話には聞いていたけど、それが誰なのかは知らなかった。目次に書いてある名前見て本当に驚いた。知ってる作家ばかりだ」
月天が、あー、でも、と顎に手を当てて考えてからおれに応える。
「萌木部長に訊いたんだけどよー。コネクションはもうないそうなんよ。この学校の栄華のときは去ってるから、だってさ」
「なるほどねぇ」
おれは月天の言葉に頷く。
よくわからんが、そんなもんだろうな、とは思っていた。
おれは掃除を本格的に中断し、机の上に昔の部誌を置いて、斜め読みし出した。
「上手い……」
「あ? 上手い? そりゃプロになったほどだからもとから腕に自信があるんだろうよ」
と、月天。
「まあ、そうなんだけどさ。文体がひとりひとり、個性を強烈に放っている」
と、おれ。
「青島の描くキャラクターでも、太刀打ち出来ないか」
「買いかぶるなよ、月天。おれはまだ修行中だぜ? でも、まあ、登場人物の個性に特化してる作品は、ないな。SFの牙城だったって聞いたんだけどなぁ。その意味では、おれも負けてないと、自分では思うぜ?」
「キャラクターじゃなく、文体論で語るようなタイプの小説ってことか。そりゃまたブンガクしてるな、先輩さんたちはよぉ」
「この部誌自体が、文芸寄りの作品縛りで書かれてるんじゃねーかな」
埃を拭く雑巾をバケツに放り込んで、月天はおれが開いている部誌を背中越しに見る。
「なるほどな。キャラ論とテクスト論。どちらで語りたくなるかというと、こりゃ後者だな」
「〈ストーリーに要請されてキャラが完成する〉タイプの作品と、〈キャラが自律的に動く〉タイプの作品がある。これらはストーリーに要請されて出来ているけどさ、なんかそういうことじゃねーんだよな。ずいぶん昔の部誌だし、この頃は〈キャラ立ち〉を気にしなかったんじゃねーか、っておれは思うんだ。だから、人間的とは言える。けど、それにしたってキャラの個性が希薄だな」
「言っていいのかぁ、青島ぁ。プロ作家サマサマに対して、そして先輩に対して礼儀がなってねーんじゃねーか?」
おれは肩越しに部誌を見ている月天の方へ顔を向ける。
月天の顔が鼻先にあって、今にも顔と顔が触れてしまいそうだ。
「独白ではなく、対話や複数人の会話になったとき、人物の固有性、つまり『固有名』が重要になる。それはミハイル・バフチンの主張だ。これがクリステヴァによってソ連からフランスに輸入されると、それはクリステヴァの主張する〈間テクスト性〉の作用によって、『テクスト論』にすり替わってしまう」
「テクスト論になるとどうだってんだ?」
「〈声が複数〉というバフチンの概念が〈テクストの豊かさ〉という〈違うもの〉にテクスト内で還元されて人物……言い換えれば『固有名』、が消えてしまうんだ」
「つまり先輩たちはテクスト論者だったんじゃないか、という予想を青島はした、と見ていいか?」
「文体、テクストのみの作用で〈魅せてしまう〉小説ってのがあって、それは純文学の十八番だ。それを狙ってやっていただろうし、キャラ全盛の時代ではなかったからな」
「ほう。ちょっと話の続きを聞いてやろうじゃないか」
会話がそこまで進むと、月天はおれの背後から離れて、パイプ椅子を軋ませながら座った。
〈110話につづく〉
掃除の途中、棚にあった、埃をかぶった昔の部誌や部活の合同誌というタイプの同人誌があったので、そのページを、おれはめくった。
今ではこの学校の文芸部出身作家として知られている作家名がずらーっと並んでいて、おれは目次を見るだけでびっくりする。
「目が泳いでいるぜ、青島」
一緒に掃除していた月天がおれに声をかける。
月天は雑巾で棚の埃を拭いている。
「んなぁ、月天。我が母校であるここは、作家育成でもやってたのかと勘違いするほどプロになった先輩たちが多い。話には聞いていたけど、それが誰なのかは知らなかった。目次に書いてある名前見て本当に驚いた。知ってる作家ばかりだ」
月天が、あー、でも、と顎に手を当てて考えてからおれに応える。
「萌木部長に訊いたんだけどよー。コネクションはもうないそうなんよ。この学校の栄華のときは去ってるから、だってさ」
「なるほどねぇ」
おれは月天の言葉に頷く。
よくわからんが、そんなもんだろうな、とは思っていた。
おれは掃除を本格的に中断し、机の上に昔の部誌を置いて、斜め読みし出した。
「上手い……」
「あ? 上手い? そりゃプロになったほどだからもとから腕に自信があるんだろうよ」
と、月天。
「まあ、そうなんだけどさ。文体がひとりひとり、個性を強烈に放っている」
と、おれ。
「青島の描くキャラクターでも、太刀打ち出来ないか」
「買いかぶるなよ、月天。おれはまだ修行中だぜ? でも、まあ、登場人物の個性に特化してる作品は、ないな。SFの牙城だったって聞いたんだけどなぁ。その意味では、おれも負けてないと、自分では思うぜ?」
「キャラクターじゃなく、文体論で語るようなタイプの小説ってことか。そりゃまたブンガクしてるな、先輩さんたちはよぉ」
「この部誌自体が、文芸寄りの作品縛りで書かれてるんじゃねーかな」
埃を拭く雑巾をバケツに放り込んで、月天はおれが開いている部誌を背中越しに見る。
「なるほどな。キャラ論とテクスト論。どちらで語りたくなるかというと、こりゃ後者だな」
「〈ストーリーに要請されてキャラが完成する〉タイプの作品と、〈キャラが自律的に動く〉タイプの作品がある。これらはストーリーに要請されて出来ているけどさ、なんかそういうことじゃねーんだよな。ずいぶん昔の部誌だし、この頃は〈キャラ立ち〉を気にしなかったんじゃねーか、っておれは思うんだ。だから、人間的とは言える。けど、それにしたってキャラの個性が希薄だな」
「言っていいのかぁ、青島ぁ。プロ作家サマサマに対して、そして先輩に対して礼儀がなってねーんじゃねーか?」
おれは肩越しに部誌を見ている月天の方へ顔を向ける。
月天の顔が鼻先にあって、今にも顔と顔が触れてしまいそうだ。
「独白ではなく、対話や複数人の会話になったとき、人物の固有性、つまり『固有名』が重要になる。それはミハイル・バフチンの主張だ。これがクリステヴァによってソ連からフランスに輸入されると、それはクリステヴァの主張する〈間テクスト性〉の作用によって、『テクスト論』にすり替わってしまう」
「テクスト論になるとどうだってんだ?」
「〈声が複数〉というバフチンの概念が〈テクストの豊かさ〉という〈違うもの〉にテクスト内で還元されて人物……言い換えれば『固有名』、が消えてしまうんだ」
「つまり先輩たちはテクスト論者だったんじゃないか、という予想を青島はした、と見ていいか?」
「文体、テクストのみの作用で〈魅せてしまう〉小説ってのがあって、それは純文学の十八番だ。それを狙ってやっていただろうし、キャラ全盛の時代ではなかったからな」
「ほう。ちょっと話の続きを聞いてやろうじゃないか」
会話がそこまで進むと、月天はおれの背後から離れて、パイプ椅子を軋ませながら座った。
〈110話につづく〉