第117話 アブジェクシオン【第三話】

文字数 1,181文字

「まず、ジャック・ラカンの〈ファルス去勢〉について概略を説明しなくちゃならない」

「ん? なんでだ?」
 おれの言葉に、はてなマークが浮かぶ月天。

「クリステヴァは〈前エディプス期〉においての話をするからだ。赤子が〈父の名〉の力で母を乗り越える、その只中の話をするのがこれから話そうとするクリステヴァの論だ。その前に、〈ファルス去勢〉のおさらいをすることになる」

「ファルス……おちんちんだな!」

「そう、心のおちんちん」

「去勢……つまりはおちんちんを切除して使い物にならなくする、ということだな」


「そういうことだ。赤ちゃんは生まれると、乳房から母乳を飲む。母は自分のものであるという全能感が、そのとき赤ちゃんにはあるんだ。だが、そこに〈人生で最初の他人〉が現れる。それが〈父〉だ。母は父のものであり、その子供である赤ちゃんのものではない。それを知ることになり、赤ちゃんからは全能感は消える。ある種の〈欠落〉が生まれるんだ。これを、〈ファルス去勢〉と呼ぶ」

「そうすると赤子はどうなるんだ?」

「ここではファルスが全能感の象徴なんだが、この去勢によって、人間は自らの不完全性を認め、不完全であるところの主体を確立することになる」

「主体ってのは不完全なもので、それを受け入れるってことか。つまりは、社会的な人間になる一歩を踏み出すってこと、……か」

「その通り。ここに、エディプスの三角形が形成される。で、今回はその前と、去勢が行われようとするその只中の話なんだな」

「クリステヴァサマの登場だな」

「ああ」

「心のおちんちんが去勢される前の話から、どう繋がるか楽しみだぜ」



「ああ、そうだなぁ。去勢前の自我が確立してない、ナルシス的とも言える主体は、最初に克服しなきゃならない〈母〉を〈おぞましいもの〉として棄却(ききゃく)する。この〈おぞましいもの〉を〈アブジェクト〉と呼び、これを棄却行為(アブジェクシオン)と呼ぶんだ」

「アブジェクシオン…………」


「アブジェクシオンによってその赤ちゃんの存在は母性から離脱して、母子の融合状態から、父性的機能との同一化に至る。これにより、その赤ちゃんは記号象徴態(ル・サンボリック)な秩序に組み込まれる」

記号象徴態(ル・サンボリック)?」

「〈語る主体〉の、記号、意味、意味作用を定め、同時に言語外的な対象の思考作用も行う様態を、クリステヴァは記号象徴態と呼んだ。この記号象徴態と、もうひとつ。記号象徴態と同時にそれから独立して、記号象徴態を産出しつつそれに対する破壊や過剰として働く様態を原記号態(ル・セミオティック)と呼んだ。クリステヴァはこのふたつの様態からなる言語活動を〈意味生成性〉と呼んでいるんだな」

「なるほどな。そこの部分が『意味生成性の記号論』だ、って前に言ったわけだな」

「そうだぜ」

「で、その〈意味生成性〉という〈回路〉から、今度は『意味生成性の言語学』を見ていくわけだな」

「ああ。言語の魔術回路を、な」




〈118話へ、続く〉
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