第110話 固有名(下)

文字数 1,426文字

 月天がパイプ椅子に座る。腕を組んで、ふんぞりかえって、
「青島。話の続き、聞かせろよ。面白くなってきやがったぜ」
 なんて言うものだから、おれも口元がほころぶ。

「バフチンは〈声は人格である〉って言った」
 と、おれ。

「それが『固有名』の問題だ、って言うわけだな」
 と、返すは月天。

 おれは頷いた。

「そうなんだよ。バフチンが提唱するポリフォニーの祝祭空間に於いては、人格同士、声同士には〈ズレ〉がある。なぜなら人格はひとそれぞれだからだ。噛み合わない故の〈複数性〉だ。これはディアローグの醍醐味と言える。ある種のキャラクター論だ。だがさぁ、それがクリステヴァを経由すると、途端にそれが〈テクスト論〉になってしまう」

「疑義を挟みたいってか?」

「クリステヴァは、ロラン・バルトの発想を突き詰めた批評家と言われている。記号学批判としての記号学。構成された内部の意味作用を解きほぐすだけじゃなくてさ、過程を経て意味が生成するのを〈解明〉する『意味生成の記号学』を目指したんだな。そこで出てきたのが、あまりにも有名な『間テクスト性』だ」


 月天は、背伸びしながらあくびを一つして、それから目を手の指でこすった。
「ポスト構造主義の用語だと思うんだが、間テクスト性。そういやよくわかってねーな、おれは」

「『間テクスト性』ってのは、あるテクストをほかのテクストとの関連で見つけ出すことを言う。具体的にゃあ先行テクストから借用したり変形したりすることや読者があるテクストを読み解く際に別のテクストを参照する、それを指すんだよな」

「要するに引用可能性の話か?」

「遠からず、そうだな。おれはテクスト論になる危険性もあると思うんだよな。だってさ、固有名を持った人格を持って〈生きている〉のが、バフチンのポリフォニーの土台になってるわけだろ。それを崩しちゃってるように思えるね。登場人物は、作者とテクストの間の声ってのがあるんだかないんだかわからない、という宙吊り状態にある。ないと言やないし、あると言や、ある。〈いるんだ!〉と信じるひとには、〈いる〉んだよ。幽霊がいるかいないかみたいな話だが、まあ、小説の登場人物とは、そういう存在だ」

「だいぶ文学に沿った話だな。キャラ小説やエンタメだったら、あるってことは〈前提〉じゃねーか?」

「そうだな。月天の言う通りだ。純文学は文体論、テクスト論でいける。エンタメやラノベや、それに類するものはキャラクター論になりやすい。それはそういう性質なんだなから、仕方がない。キャラクターってのは、ある種の小説にとっては『役割(ロール)』だからだ。成長する必要性は、特にない。だが、文学は教養小説をはじめ、人物が〈生きている人間のように〉ってのが、基本だ。……基本でしかないが」



「ふーん」

 月天は目をもう一度こすると、
「眠い」
 と言った。

「眠いか?」

「どうも一年生のおれと青島がこの掃除という戦争の先兵となって戦うのが、おれは納得いかねぇ。補習を受けてる山田先輩を拉致ろうぜ」

「二年生の教室に行くのか。やめとけって」

「んじゃ、紅茶でも飲んでぐだっていようぜ」

「それは賛成」


 こうして、夏休みの部活が始まっていくのだったが、相変わらずなおれたちだった。
 願わくば、喧嘩をせずに夏休みを過ごしていきたいところだが。
 なるようにしかならないもんなんだよな、こういうのって。
 おれたちやこの文芸部が平和でありますように。
 ……なんて、祈ることしか出来ないけれどもさ。



〈了〉
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