第89話 大きい主語

文字数 1,984文字

 月天はメロンソーダのグラスからストローを抜き取り、歯で噛む。
「青島。斎藤めあが言うには、おれたちは〈都市伝説上の存在〉になっちまったらしいぜ」

「月天……。おれたちは〈実存〉の問題をクリアしてねーだろ。それが今や〈概念〉だっつーんなら、おれたちこそ本当の意味で文芸部の〈幽霊部員〉だ」

「ちげぇねぇ。実存が曖昧になっちまってるな。生きてるのかすら、わからねぇ」

 横長の椅子の背もたれに両腕を広げて預けながら、月天は天井を見上げた。
 このファミレスの天井ではインテリアとしてのプロペラみたいなのがくるくる回っている。
「泣きたくなるぜ」


 おれはコーラを飲む。炭酸が弾ける。
「『社会は何々だから良くない』って言う奴ら。『社会が何々になればひとはしあわせになる』や、逆に『社会に何々がなくなればひとはしあわせになる』って論法の奴らが指す〈社会〉や〈ひとのしあわせ〉って、一体なんなんだろうな」

 これはつまり、県下怨霊が悪意だと思って暴力を振るっているわけではないことを暗喩として語ったわけだが。
 それを抜きにしたって……。

「〈主語〉が〈大きい〉奴ら、……か」
 月天がプロペラを眺めながら嘆息した。




「月天。初期ギリシアの伝統で、主意主義と主知主義ってあるだろ」

「ああ。主意主義が〈右〉で、主知主義が〈左〉だっけ?」

「社会がよくなってもひとはしあわせにならない。逆に、社会が混沌でも、ひとはしあわせになることだってできる」

「なるほどな。で。それが?」

「近代成熟期を迎えてから、この社会は〈ブラックボックス化〉した。隅々まで知ることは不可能だし、それが〈機能分化〉した〈現代〉の定義それ自体なんだ」

「だな」

「〈社会が〉って主語が大きいひとが、みんながみんな社会を本当に知っているのかな、って思うわけだ。本当は〈社会を出汁にして自分という個人の願望を語っている〉だけじゃねぇか、って思うことがある。社会のしあわせと個人のしあわせはイコールでは結ばれない。だが、社会を知らないが故に、自分がしあわせにならないのは社会っていう都合が良さそうなパワーワードのせいだ、と断じる。まあ、それもおれの意見でしかないんだが。でも、戦争が起こるのはこの手の妄想がこじれて糾合する自分が〈正義〉に見えてくるからじゃねぇか、って」

「社会がよくなるって、定義自体が不明だもんな。そいつの社会〈観〉の中での話でしかないわけだ。〈ブラックボックス〉であるのもそれをさらに裏付ける。不明なもんが多すぎる」

「メンバーの主観的な一体感に基づく社会行為関係を『共同社会(げまいんしゃふと)』と呼ぶ。一方、目的合理的あるいは価値合意的な合理的動機による利害の均衡や利害の一致に基づく社会関係を『利益社会(げぜるしゃふと)』と呼ぶ」

「自分の主観と、価値合意的な関係をはき違えているってことか」

「だいたい、そんなとこ。それを踏まえた上で喋っているのか、だ。踏まえたとして、そりゃ社会は〈良くなった方がいい〉に決まっているだろう。でも、例えばそれでも。社会がよくなる〈だけ〉ではダメだ」

「そしてその大きい主語の奴の言うところの〈社会〉では主観が肥大化していて、ほかのひと……メンバーの、利害が一致していないか、または、均衡が保たれないか、だ。そのひとりよがりが、主語の大きい奴が言う〈社会〉であるかもしれない、と」


「まだ考えを詰めてないし、色々知っていかなきゃ、おれにも語れない。経験も座学も不足してるおれじゃ、残念ながら語れない。だが、〈実存〉の問題を〈社会〉に〈すり替えている〉感じがするんだ。そして、実存と社会の両者はイコールではない。見えない社会のなにを見てきたのか、それは実存の問題じゃないのか、解決する問題を違えているんじゃないのか、さらに、社会がよくなくてもしあわせになれるとは、つまりは問題系の時点でどこに向かうべきかの選択が合っているのか、もしかしたらそれがわからないんじゃないか、とおれは思うんだ。しあわせって、つまり〈誰のしあわせ〉のことを言っているんだ? 根本的に間違えてる場合が、多すぎやしないか。そいつは〈この国〉や〈世界〉を代表しているかのように大きい主語を使うが、単に自分の〈好悪〉の話をしているんじゃないのか」

「青島。疲れてるなら、ちょっと休んだ方がいいぜ」

「ああ。そうだな。昨日の今日で、めまぐるしく自分を取り巻く環境が変化していったからな。疲れているのかもしれない」

 月天が、おれに向き直る。
「轟音で洋楽でも聴こうぜ」

「そうしよう」
 おれは頷く。



 ただ、おれは、ここからなにかが始まっていくような気がした。
 気がしただけ、だとありがたいのだが。





〈了〉
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