第119話 アブジェクシオン【第五話】
文字数 2,028文字
クリステヴァはどんな文学がつくられるのを望むのか。……それが今回の話だ。
ソシュール言語学から〈排除された〉、その〈外部〉。
具体的には、クリステヴァは二種類あげている。
1.幼児の言語活動。
2.精神病者の崩壊寸前の言語活動、の二種類。
他方で、意識的、かつ実験的に既成の言語活動を乗り越える〈文学〉の言語活動もまた、〈詩的言語〉として、〈外部〉。
この〈外部〉に通じる〈回路〉を、クリステヴァは〈意味生成性〉と呼ぶ。
その意味生成性の回路を、クリステヴァは構築していく。
〈前エディプス期〉、赤子は〈父の名〉の力で母を乗り越える。
これをファルス去勢と呼ぶ。
ファルスは全能感の象徴だが、このファルス去勢により、人間は自らの不完全性を認め、不完全であるところの主体を確立する。
つまりは、社会的な人間になる一歩を踏み出すってことなのである。
これは、去勢前の自我が確立してない主体が、最初に克服しなきゃならない〈母〉を〈おぞましいもの〉として棄却することでもある。
おぞましいもの、言い換えると、アブジェクト。
アブジェクトを、棄却する。それをアブジェクシオンと呼ぶ。
アブジェクシオンによって棄却されるものは、『おぞましくも魅惑的なもの』だ。
これらおぞましいものは自分と他人の境界を侵犯し、自己のアイデンティティを脅かすものである。
この、両義的な『おぞましくも魅惑的なもの』と感じる情動作用の発生源こそが、〈母性の潜勢力〉だ、とクリステヴァは言う。
……これが前回までのアウトラインだ、とおれは月天に言った。
「〈外部への回路〉の両義的な〈母性の潜勢力〉が、〈意味生成的〉な〈文学〉へ続く道、か。……青島、続けてくれ」
「社会的になるってのは普通、通過儀礼のことを指すけどさ、つまりは社会的共同体に回収されていく存在だよな。だが、幼児の言語活動や精神病者の崩壊寸前の言語活動と、それを意識的にやる〈詩的言語〉という、ソシュール言語学の〈外部〉の話は、だからそれ以前だったり社会から隔離されていたり、理解されなかったたりと、共同体内部の論理とはずいぶん違うことを言っていくことになる」
「前エディプス期だっけ? その、情動作用の発生源になる母性の潜勢力が発動するのは」
「アブジェクト、つまり〈おぞましいもの〉は、外部ではなくて、自己の内部に潜む点に注意だ。それを踏まえた上で、母性の潜勢力のメカニズムが働くのは個人でなく、社会集団でも、なんだな」
「社会集団の中の、個人個人、の内部でのことなんだな」
「そう。だからこそ宗教は抑圧されて無意識になった〈おぞましいもの〉のメタファーとしての『コード化』だと、クリステヴァは考えるんだ」
「〈おぞましいもの〉のメタファーとしての『コード化』が、宗教である、か。つまりは……〈おぞましいもの〉をどう〈飼い慣らすか〉だな、おれの言葉で表現するならば」
「宗教儀礼とは自己のアイデンティティを母性の潜勢力の中に永久に吸収してしまう恐怖を〈祓う〉ものなんだ」
「おぞましいものを、祓う、……か」
「クリステヴァによれば。多神教では〈汚れ〉は〈穢れ〉へと聖化され、浄めと分離の儀式で排除の対象とする」
「なんか微妙にズレてる気がしないでもないが……まあ、それはそれで。んでよ、一神教では?」
「一神教では棄却行為 の内面化、精神化である〈罪〉の観念というかたちをとる、とする」
「宗教儀礼か。それこそ、共同体に入るために面々と受け継がれてきた奴だな」
「現代は宗教儀礼という慣習の実践が効力を失っている。自明だな。効力を失ったことで、父性機能は低下した。だからアブジェクトの回帰、フロイト言うところの〈死の欲動〉の回避が避けがたくなっている」
「で、それがどう〈文学〉と繋がるんだ?」
「〈文学〉は、前エディプス的律動と虚構的意味を作品の作用によって読者に与えることで、逆に欲動の解除作用を試みることが出来る、とする」
「要するにアブジェクトを扱かったり、そのおぞましいものをアブジェクシオンをすることなんかを作品で行うことによって、死の欲動の回避に効果がある〈文学〉が創造できて、そのエクリチュールこそが〈詩的言語〉なんだな」
「そういうことだぜ、月天。一瞬、奇っ怪な文体や内容の小説があったとしても、そのエクリチュールの作用が宗教と同じく、ときにおぞましいものを浄化させるのと同じ作用を持つことがある。それを、クリステヴァは文学に望んでいるのだろう。……っつってもよ、クリステヴァが念頭に置いてるのって、あきらかに〈ポストモダン文学〉だよな」
「ああ。おれもなんかそんな気がしてた……」
「だから、テクスト論だ、って言われるのかもしれねーぜ。否定出来ないよな、それは」
「んじゃ、掃除すっか。モップがけの続き」
「だな」
おれと月天は、パイプ椅子から立ち上がり、シンクに珈琲を飲んで空になったマグカップを置いてから、再びモップがけを始めたのであった。
〈了〉
ソシュール言語学から〈排除された〉、その〈外部〉。
具体的には、クリステヴァは二種類あげている。
1.幼児の言語活動。
2.精神病者の崩壊寸前の言語活動、の二種類。
他方で、意識的、かつ実験的に既成の言語活動を乗り越える〈文学〉の言語活動もまた、〈詩的言語〉として、〈外部〉。
この〈外部〉に通じる〈回路〉を、クリステヴァは〈意味生成性〉と呼ぶ。
その意味生成性の回路を、クリステヴァは構築していく。
〈前エディプス期〉、赤子は〈父の名〉の力で母を乗り越える。
これをファルス去勢と呼ぶ。
ファルスは全能感の象徴だが、このファルス去勢により、人間は自らの不完全性を認め、不完全であるところの主体を確立する。
つまりは、社会的な人間になる一歩を踏み出すってことなのである。
これは、去勢前の自我が確立してない主体が、最初に克服しなきゃならない〈母〉を〈おぞましいもの〉として棄却することでもある。
おぞましいもの、言い換えると、アブジェクト。
アブジェクトを、棄却する。それをアブジェクシオンと呼ぶ。
アブジェクシオンによって棄却されるものは、『おぞましくも魅惑的なもの』だ。
これらおぞましいものは自分と他人の境界を侵犯し、自己のアイデンティティを脅かすものである。
この、両義的な『おぞましくも魅惑的なもの』と感じる情動作用の発生源こそが、〈母性の潜勢力〉だ、とクリステヴァは言う。
……これが前回までのアウトラインだ、とおれは月天に言った。
「〈外部への回路〉の両義的な〈母性の潜勢力〉が、〈意味生成的〉な〈文学〉へ続く道、か。……青島、続けてくれ」
「社会的になるってのは普通、通過儀礼のことを指すけどさ、つまりは社会的共同体に回収されていく存在だよな。だが、幼児の言語活動や精神病者の崩壊寸前の言語活動と、それを意識的にやる〈詩的言語〉という、ソシュール言語学の〈外部〉の話は、だからそれ以前だったり社会から隔離されていたり、理解されなかったたりと、共同体内部の論理とはずいぶん違うことを言っていくことになる」
「前エディプス期だっけ? その、情動作用の発生源になる母性の潜勢力が発動するのは」
「アブジェクト、つまり〈おぞましいもの〉は、外部ではなくて、自己の内部に潜む点に注意だ。それを踏まえた上で、母性の潜勢力のメカニズムが働くのは個人でなく、社会集団でも、なんだな」
「社会集団の中の、個人個人、の内部でのことなんだな」
「そう。だからこそ宗教は抑圧されて無意識になった〈おぞましいもの〉のメタファーとしての『コード化』だと、クリステヴァは考えるんだ」
「〈おぞましいもの〉のメタファーとしての『コード化』が、宗教である、か。つまりは……〈おぞましいもの〉をどう〈飼い慣らすか〉だな、おれの言葉で表現するならば」
「宗教儀礼とは自己のアイデンティティを母性の潜勢力の中に永久に吸収してしまう恐怖を〈祓う〉ものなんだ」
「おぞましいものを、祓う、……か」
「クリステヴァによれば。多神教では〈汚れ〉は〈穢れ〉へと聖化され、浄めと分離の儀式で排除の対象とする」
「なんか微妙にズレてる気がしないでもないが……まあ、それはそれで。んでよ、一神教では?」
「一神教では
「宗教儀礼か。それこそ、共同体に入るために面々と受け継がれてきた奴だな」
「現代は宗教儀礼という慣習の実践が効力を失っている。自明だな。効力を失ったことで、父性機能は低下した。だからアブジェクトの回帰、フロイト言うところの〈死の欲動〉の回避が避けがたくなっている」
「で、それがどう〈文学〉と繋がるんだ?」
「〈文学〉は、前エディプス的律動と虚構的意味を作品の作用によって読者に与えることで、逆に欲動の解除作用を試みることが出来る、とする」
「要するにアブジェクトを扱かったり、そのおぞましいものをアブジェクシオンをすることなんかを作品で行うことによって、死の欲動の回避に効果がある〈文学〉が創造できて、そのエクリチュールこそが〈詩的言語〉なんだな」
「そういうことだぜ、月天。一瞬、奇っ怪な文体や内容の小説があったとしても、そのエクリチュールの作用が宗教と同じく、ときにおぞましいものを浄化させるのと同じ作用を持つことがある。それを、クリステヴァは文学に望んでいるのだろう。……っつってもよ、クリステヴァが念頭に置いてるのって、あきらかに〈ポストモダン文学〉だよな」
「ああ。おれもなんかそんな気がしてた……」
「だから、テクスト論だ、って言われるのかもしれねーぜ。否定出来ないよな、それは」
「んじゃ、掃除すっか。モップがけの続き」
「だな」
おれと月天は、パイプ椅子から立ち上がり、シンクに珈琲を飲んで空になったマグカップを置いてから、再びモップがけを始めたのであった。
〈了〉