第122話 聖の不在と不在ゆえの聖(上)

文字数 1,873文字

 夏だ。
 夏休みだ。
 今日は朝から部活。
 僕はハンカチで額をぬぐってから部室のドアを開けた。
「おはようございます!」
「おう、山田。おはよう」
 と、萌木部長。
「あら、今日は寝坊しなかったのね、偉い偉い」
 と、佐々山さん。
「もう、からかわないでよ、佐々山さん」
「愛しの萌木部長の前だもんね、失礼だったわね」
「だーかーらー。そういう腐女子目線で変換しないでよぉ」
「はいはい。サモワールにお湯が入ってるわ」
「サモワール? って、ポットじゃん」
「ドリップした珈琲か紅茶でも?」
「佐々山さんが淹れてくれるの?」
「特別ね。今日は気が向いたから」
「フィルターでドリップして珈琲飲みたいな」
「はいはい」


僕が自分の席に座ると、佐々山さんがカップにいれた珈琲を持ってきてくれた。
僕は二人に話す。
「昨日、親戚のおじちゃんが僕の家に来たんですよ」
 佐々山さんも自分の席に座って、足を組みながら紅茶を飲み、
「ふ〜ん、それで?」
 と、話の続きを促す。
「県央にも〈部落〉があって、そこに行くときは余計なことは言わない方が良いって、おじちゃんが言っていたんですよ」
「へぇ」
 と、佐々山さんは気のないような生返事をする。
 僕は続きを話す。
「その地区の公立の学校に地区名がつかずに当たり障りのない名称がついているのは、それが当たり障りのない名前だからだ、って」
 新しい珈琲フィルターで珈琲をドリップしていた部長が、ポットを持ちながら、僕に応じる。
「ま、どこにでもあるよな、その手の話は。そして、立場の違いから、被差別部落と呼ぶひとたちと、同和問題と呼ぶひとたちがいる」
 そこに佐々山さん。
「でもさぁ、部長。島崎藤村だって水平運動と新平民の小説を書いていたじゃない。文学にとってはおなじみよね」
「いや。書く方だって命がけだよ、なんだかんだでタブーだからな、この話題は、未だに」
 僕が尋ねる。
「それこそ島崎藤村が書いているのに、ですか」
「そうだよ」
 と、部長。
 佐々山さんは、あきれたわ、と肩をすくめる。
「大江健三郎のデビュー作は読んだかしら?」
「『奇妙な仕事』だよね、読んだよ。屠殺人の手伝いのバイトをする話だよね」
「だーかーらー! 放送禁止用語よ、屠殺って言葉」
「そうなの?」
 部長はドリップしながら苦笑する。
「カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』のスローターハウスってのも、屠殺場って意味だしな。文学を嗜むと逆に感覚が麻痺するのは違いない」
「〈そういうことだ〉。わかったかしら、山田くん」
「ヴォネガットの決め台詞でキメなくていいからな、佐々山」
「SFマニアの部長がヴォネガットを話し出すと長いからやめてね」
「なんだよ、せっかく話題に出た大江とヴォネガットが対談したときの話をしようとしたのに」

「大江というと、アクティヴィストの側面として、原発の話が出てくるわね」
「原発も突っ込まない方が良いタブーのひとつだ。これも感覚が麻痺するな」
「わたし、数年前、筑豊炭田のドキュメンタリー映画を観たのだけれども、筑豊で筑豊と呼んで怒鳴られたりしてるシーンがあったわ。そして、その映画は福島と筑豊をつなげて語る映画だったわ」
 部長がカップを持って自分の席に座る。
「単館系の映画を観に行く趣味が佐々山にあったとは。それはともかく、東日本では集落のことを普通に部落と読んでいるが、西日本で部落と口にするのはヤバいのは、今も変わらないから気をつけろ。中上健次がなんで部落……〈路地〉にこだわったか、よく考えた方が良い」

 佐々山さんは言う。
「朝廷があったのも西日本。〈聖〉と〈穢〉は、ワンセットよ」
 部長が補足する。
「その〈聖〉と〈穢〉を反転させるのも、文学の戦略のひとつだ。覚えておくと良い」
「なるほど」
 頷く僕。
「バカね。〈君子危うきに近寄らず〉よ。書かないで済むなら、書かない方が良いわ。書く人間は、〈書かざるを得ない人間〉ね。絶対に面白半分で書いちゃダメだからね」

 珈琲を一口すすり、
「男娼で泥棒だったジャン・ジュネを〈聖ジュネ〉として書いたのがサルトルだ。それに則って、やはりミシェル・フーコーは神への冒涜者であるマルキ・ド・サドを文学論で描き出した。今日の朝は、その話から部活を始めようか」
 どかどかと走る音が近づいてきたのを受けて、部長はくすくす笑いをかみ殺してそう言った。
 ドアを開け入ってきたのは青島くんと月天くん。
 一年生コンビだ。
「元気が良いな、一年生!」
 部長がコンビに、言い放つ。
「うぃっす」
 月天くんが応える。

 さあ、今日も夏休みの部活が始まるぞ。




〈123話へつづく〉
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