第57話 少し反省しなさい
文字数 1,851文字
「部長がさっき言ってたことに、納得がいかないわね」
湯飲みから茶をすすり、佐々山さんが言った。
僕はパソコンのキーボードを叩く手を止めて、佐々山さんの顔を見る。
「さっきの、スピノザの話?」
「そう、スピノザの話!」
僕の横まで来ると、佐々山さんは体をかがめて、ぐっと顔を僕に近づける。
か、顔が近い…………。
僕は顔が真っ赤になるのを自分でも感じる。
目をそらす僕。
佐々山さんはそれに気づかないのか、話を続ける。
「スピノザは『真実を知ることはしあわせである』と書いている、という話だったわね。〈知る〉こととはなにか、という話になったのだけれども。結論としては、〈倫理〉や〈徳〉という側面から、やっぱり知ること、知識を身につけることは大切だったってことだ、ってとこまで話は進んだのよね」
「そうだったね」
佐々山さんは、僕の顔をのぞき込みながら、頭を手でぽんぽんと叩く。
それから手を離し、体を伸ばしてから、茶を飲んだ湯飲みを僕のいる机に置いた。
「うやむやに保留した〈真実〉なんだけど、あれは〈ひとつの価値観が絶対的である〉ときにしか有効な言葉ではないわよね。絶対的な真実を信じるひとたち……。わたしは、神とかいう奴のつくった絶対的な真実とやらは、信じてないわ」
「そう言われると、部長は一体どうしちゃったのかな」
「それよ! そう! そうなのよ!」
「う……うん?」
「斎藤ちゃんとなにかあったのね。ほら、そこは部長の年下彼氏の山田くんがどうにかしなくちゃ」
「僕と部長はそういうのじゃないし」
ダン! と音を立てるように僕の机に手を置き、僕の至近距離まで顔を近づける佐々山さんは、
「違うのね。じゃ。わたしに逆らってばかりのワルいくちびるを、ここで奪うわ」
佐々山さんのくちびるが、僕のくちびるに近づいていく。
き、キス?
僕が。
佐々山さんと。
え、でも。
ん。
どうしよう。
キス。
ああ。
ファーストキスを。
ここで。
僕は。
佐々山さんと。
えーっと。
うーん。
えーっと。
ど、どうすれば……。
顔が、佐々山さんの顔が近づいてくる…………。
「あ。ああああああぁぁああああぁぁぁ」
思考回路がショートする僕は、佐々山さんの肩をつかんで押し離す。
二人の間の距離を離してしまった。
佐々山さんは机から自分の手を離し、体勢を整えた。
「はぁ。……ったく。勇気がないのね、少年」
湯飲みを持ち、お茶を飲み干してから、佐々山さんはそう言った。
「ご、ごめん」
「いいのよ」
「本当にごめ……」
「くどい」
「はい…………」
萎縮する僕。
「さっきの続きの話をしましょう」
「はい」
「そこ。萎縮しすぎ」
「はい」
「バカ」
「…………はい」
「ふぅ。そもそもひとによって必要な『知識』は違うわ。絶対的な真理なんてなくて、相対的な価値基準しかないとしたら、良いこと、悪いことの基準てなにかしらね。たぶん、了解は取れないわ。その中で、『知ることが絶対的に正しい』、『知らないでは済まされない』とは、なにかしら。『知らないよりは知っていた方がいい』程度でいいんじゃないかしらね。キツい言い方すぎないかしら。知識を得るには、個人個人で別々の限界量があるわ。それなのにあおったら、もちろん脱落者が出るけど、その脱落者たちに向かって『知らないじゃ済まされない』はないんじゃないかしら。それをしよう、ってのが部長の立場なのかしら」
「……そうだね」
「余計なことを知る問題、ってのもあるわ。例えば、放送禁止用語を使わないでしゃべったり書いたりできるように放送禁止用語を覚えると、その放送禁止用語を〈使える〉ようになってしまう。まさに、〈余計なことを!〉って話よ」
「でも、無知だと犯罪に対処できないかもしれない」
「そうね。無知、ね。……乙女に恥をかかす奴が言うもんじゃないとは思うけどね」
「は、……はい」
「だからそこで萎縮しない!」
「はいぃぃ」
「このへたれ。少し反省しなさい」
「はい」
うふふ、と佐々山さんが笑う。
意外に楽しそうな顔だ。
でも。
僕はこの場から逃げ出したくなったのだった。
「ああああああああ」
頭を抱える僕。
本当に、僕はへたれだ……。
〈了〉
湯飲みから茶をすすり、佐々山さんが言った。
僕はパソコンのキーボードを叩く手を止めて、佐々山さんの顔を見る。
「さっきの、スピノザの話?」
「そう、スピノザの話!」
僕の横まで来ると、佐々山さんは体をかがめて、ぐっと顔を僕に近づける。
か、顔が近い…………。
僕は顔が真っ赤になるのを自分でも感じる。
目をそらす僕。
佐々山さんはそれに気づかないのか、話を続ける。
「スピノザは『真実を知ることはしあわせである』と書いている、という話だったわね。〈知る〉こととはなにか、という話になったのだけれども。結論としては、〈倫理〉や〈徳〉という側面から、やっぱり知ること、知識を身につけることは大切だったってことだ、ってとこまで話は進んだのよね」
「そうだったね」
佐々山さんは、僕の顔をのぞき込みながら、頭を手でぽんぽんと叩く。
それから手を離し、体を伸ばしてから、茶を飲んだ湯飲みを僕のいる机に置いた。
「うやむやに保留した〈真実〉なんだけど、あれは〈ひとつの価値観が絶対的である〉ときにしか有効な言葉ではないわよね。絶対的な真実を信じるひとたち……。わたしは、神とかいう奴のつくった絶対的な真実とやらは、信じてないわ」
「そう言われると、部長は一体どうしちゃったのかな」
「それよ! そう! そうなのよ!」
「う……うん?」
「斎藤ちゃんとなにかあったのね。ほら、そこは部長の年下彼氏の山田くんがどうにかしなくちゃ」
「僕と部長はそういうのじゃないし」
ダン! と音を立てるように僕の机に手を置き、僕の至近距離まで顔を近づける佐々山さんは、
「違うのね。じゃ。わたしに逆らってばかりのワルいくちびるを、ここで奪うわ」
佐々山さんのくちびるが、僕のくちびるに近づいていく。
き、キス?
僕が。
佐々山さんと。
え、でも。
ん。
どうしよう。
キス。
ああ。
ファーストキスを。
ここで。
僕は。
佐々山さんと。
えーっと。
うーん。
えーっと。
ど、どうすれば……。
顔が、佐々山さんの顔が近づいてくる…………。
「あ。ああああああぁぁああああぁぁぁ」
思考回路がショートする僕は、佐々山さんの肩をつかんで押し離す。
二人の間の距離を離してしまった。
佐々山さんは机から自分の手を離し、体勢を整えた。
「はぁ。……ったく。勇気がないのね、少年」
湯飲みを持ち、お茶を飲み干してから、佐々山さんはそう言った。
「ご、ごめん」
「いいのよ」
「本当にごめ……」
「くどい」
「はい…………」
萎縮する僕。
「さっきの続きの話をしましょう」
「はい」
「そこ。萎縮しすぎ」
「はい」
「バカ」
「…………はい」
「ふぅ。そもそもひとによって必要な『知識』は違うわ。絶対的な真理なんてなくて、相対的な価値基準しかないとしたら、良いこと、悪いことの基準てなにかしらね。たぶん、了解は取れないわ。その中で、『知ることが絶対的に正しい』、『知らないでは済まされない』とは、なにかしら。『知らないよりは知っていた方がいい』程度でいいんじゃないかしらね。キツい言い方すぎないかしら。知識を得るには、個人個人で別々の限界量があるわ。それなのにあおったら、もちろん脱落者が出るけど、その脱落者たちに向かって『知らないじゃ済まされない』はないんじゃないかしら。それをしよう、ってのが部長の立場なのかしら」
「……そうだね」
「余計なことを知る問題、ってのもあるわ。例えば、放送禁止用語を使わないでしゃべったり書いたりできるように放送禁止用語を覚えると、その放送禁止用語を〈使える〉ようになってしまう。まさに、〈余計なことを!〉って話よ」
「でも、無知だと犯罪に対処できないかもしれない」
「そうね。無知、ね。……乙女に恥をかかす奴が言うもんじゃないとは思うけどね」
「は、……はい」
「だからそこで萎縮しない!」
「はいぃぃ」
「このへたれ。少し反省しなさい」
「はい」
うふふ、と佐々山さんが笑う。
意外に楽しそうな顔だ。
でも。
僕はこの場から逃げ出したくなったのだった。
「ああああああああ」
頭を抱える僕。
本当に、僕はへたれだ……。
〈了〉