第86話 天の配剤

文字数 1,186文字

 自動車のセールスをしていた大昔のこと。
 タクシー上がり中古車が30万円で売れた。高校出の事務員の月給が
8000円の時代で、車は希少価値があった。
 買主は、浪速で税理事務所をしている税理士さんだった。みんなが出かけて
いて誰もいないデスクの電話が鳴った。
「はいこちら営業2課でございます」偶然キャッチした電話だった。そこに
先輩がいたら私には、回ってこなかったことだろう。天が下されたお客さんだ。
トントン拍子に話が進んだ。初契約だった。 
 
 丹念に磨いて納車した。納車は二人一組で行う。
いつも納車を手伝っているトップセールスマンHが、この日は私の補佐をした。
H曰く。「組むにはダスイ男子よりK(私の旧姓)の方がよっぽどよい。男同士は
競っているのだ。ライバル同士である。その分戦いの土俵にも上がっていない私
に心を許したのかよく声がかかった。女らしからぬ女は、声まで大きかった。

 契約も受け渡しの授受もHに見守られてドキドキの内に完了した。
よっぽど嬉しかったのだろう。玄関まで見送ってくれた税理士に
「ありがとうございました」と最敬礼した。その声を聞いて隣の玄関が開いて女性が
飛び出してきた。
「あの声は千恵に違いない」と感じたと言うから、この大きな声は生まれつきのものだろう。
「閲兵。分列に前へ進め。頭なか」時は戦時中。小学生と思えぬ訓練と号令?
先生は私の号令を絶賛したことを思い出した。

 彼女は小学一年から12年間机を並べた学友だった。彼女は早くに結婚したが由あって
離婚し、大阪で女中奉公をしていると、噂には聞いていたが、目の前に噂の主が立っていた。
 二人は手を取り合って偶然の再会を喜んだ。しかし、彼女は奉公の身。私も勤務中で大金を
持っていて、納入しなくてはならない。お互い心を残して別れた。

 偶然といえば、あれから更に10年は経過していたか?私は故郷に帰り身を固め、事業に
失敗して、小さな八百屋をしていた。道路を挟んで向かいの家がリホームされ喫茶店になった。
こんな場末で営業が成り立つのかと一瞬感じた。

 ある日、喫茶店のマスターが八百屋に現れた。顔を見て誰からともなく
「アアッ」「エエッ」と奇声を上げた。マスターはその昔、営業2課で同じ空気を吸った
仲間だったのだ。
 場末の喫茶店のマスターが落ちぶれていると言うのではない
 小さい八百屋が恥ずかしいと言うのでもないが、
颯爽とはしていなくても、お互いにあの頃は、それなりの夢や華があったように思える。
天のみぞ知る、寒い日の再会だった。

 この時病人と負債を抱えていて、八百屋が命だったので、一杯のコーヒーを応援する
ゆとりがなかった。気がついたら2カ月後、経営者が変わっていた。
彼は大阪に帰ったのか?そのまま四国のどこかで暮らしているのか?
何か不義理した感否めない。時の流れだ。分水嶺だったのだ。
 水も雲も時も待った無しに流れてゆく。










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