第126話 かかりつけ医

文字数 905文字

 今月の定期検診を終えた。 
 「ほんとにお元気」医師は言う。「先生声ばっかりですよ」「その声の張りは九十歳
とは思えない」この声で苦労しているのだが?
「お元気ですね」と言われるのが嫌いなのだ。九十の坂を越えたら、少し弱々しく、
可愛げの滲むババアにならなくては、と思うのだが、
炊飯時のように、はじめ、チョロチョロはよいのだが、中ぱっぱ。になると我が世になる。
いつのまにか、声は凛々としてくる。そうだ。この声は少女時代からだ。 

 朝礼でも、運動会でも、「カシラ中」「分裂に前へ進め」号令は、はやされて得意だった。
思春期、さすが恥ずかしくなって、少し意識していた。が、ままならむ、世を生きているうちに、地声は戻ってきた。もう恥ずかしいとは思っていない。尊敬する女史は、「スカッとして気持ちがいい」と言う。しかし調子に乗ってはいけない。賢い友は、あなたのこと女史のように好きな人もいれば、嫌いと思っている人もいるからね」やんわり釘を刺された。その通り。
 好かれようと、嫌われようと、私は私。ましてや、この声は私の生命の証。体調の悪い時には
一声聞いただけで、すぐ分かると子供達は口をそろうて言う。何といっても単細胞だから。

 天気予報は曇りのち雨というのに、朝は晴れていて午後三時まだ雨は降らない。窓の外の
風は強いようだ。歴史を小説にしたここ、ふるさとの冊子を読んだが、感想文を書く気が
失せている。やはり、よる年波と言うのだろうか。
 窓の下をサイレンの音を響かせて、救急車が走りすぎてゆく。 
 ティータイムだ。午後はやはり紅茶にしよう。

 強風は春一番とのことである。もう春なんだ。吉野川の河川敷の辛子菜の花は咲きついで
いるのだろう。行ってみたい。土手を下りて轍の先の花の中へ行った日。吉野川は滔々と
流れ、雲間からさす日矢、微かな川風に揺らぐ辛子菜の花、思い出が蘇る。ただ思い出だけ
が今を支えている。
 文章サロンの先輩だったTさんの訃報を聞いた。しばらくは隣に腰掛けていた上品な
おばあさん。Tさん、さようなら。ご冥福をお祈り致します。
 Tさんの最後になった記念誌の「埋み火」をあなたを偲んで読んでいます。




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