第96話 父と猪(4)

文字数 605文字

 父を豪放磊落と人は言うが、どこか飄々とした半面を持っていた。
表裏一体、それは、父の生きる知恵だったのかも知れない。
 戦後、娯楽のない寒村では祭り相撲が人気を呼んでいた。相撲には近隣からも
遠くは淡路島からも力士が来た。そして祭りに喧嘩はつきもの。喧嘩が起きた時の
仲裁は父でないと双方が収まらなかったという逸話がいくつもある。
 また山の木を花井某なる人に売ったが代金を持ち逃げされたことがあった。
「立場を変えて見い。花井某の方が辛いんだ」と父はあっけらかんと言った。
父の生存中某は帰郷しなかったが、私は今も持ち逃げした某の事を忘れてはいない。
 農地解放で近隣の山の一部も田圃もなくしたが、父は残った雑木山で炭を焼き、
思いのままに開墾して蜜柑を植えた。山には今も炭窯の跡が残り当時と面影を偲ぶ。
 私が大阪で働いていた時、父は大阪場所を見ると言って来阪したのに、相撲見物
もせず市場で魚を買い刺身にして食べさせてくれた。相撲見物は口実で私の様子を
見にきたのだろう。昔のように多くを語らず、静かにひっそりと父と娘は箸を
動かしていた。
 翌日父は、あきつ丸で帰郷した。船は大きく旋回した。父は反対側に回ってまだ
立っていた「ボーッ」と汽笛を残して船は岸壁を離れた。私は船が小さくなるまで
岸壁に立ち続けた。船の別れは筆舌に尽くしきれないものがある。
 心の壁に染むのは、小さくなってゆく父の姿。
 これが元気な父を見た最後になった。






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