第94話 父と猪(2)

文字数 1,281文字

 猟が解禁になりに雪が降り積もり始める頃になると会長から招集がかかる。
 雪の舞う夜。家族は裸電球の下で囲炉裏を囲んで芋を焼いたり味噌田楽の
夜食を食べていた。弟と二人は、競争しながら明日父が、脛につける脚絆を
巻いていた。固く巻くほどしっかりと脛に馴染むようである。
「おーこれは良う巻けたのう」
ただそれだけの言葉を聞きたくて工夫しながら堅く巻いた。
 父の出立は、タンクズボン(腰のあたりが膨らんでいるズボン)にハンチング帽。
革ジャンなどないから、綿入の半纏でも着ていたのだろう。朝は早いから出かける時の
父を見送った覚えはない。
 会長の家に集まった猟師たちは、二手か三手に分かれて、まず猪の足跡や糞を頼りに
出没を探る。探すのに何日も要することは度々であった。痕跡を見つけたら深く静かに
潜行する。話すことも尿、便もままならない。猪に悟られないためである。
 数日間追い詰めて、高森の嶺を戦場と決めた。明日は天王山である。会長はA、Dは
尾根に、B、Eは岩陰に、Cは1本松の下にと、猟師の手腕にあわせて万全の配置をした。
配置は、天の声に等しく異論はない。予測通りに猪が来たら、慣れた漁師でも一瞬ドキリと
するらしい。父の腕は不確かなのか、責任の高い場所にはあまり配置されなかったようだ。
どこに配置されても1日中、その場所を動いてはならない。目の前を兎が通っても兎を
撃ってはいけない。これは仲間の厳しい約束ごとである。今日こそはと日々追い続けた
あげく、この日は猪に逃げ切られてしまった。
 猪狩りに失敗した後は何日か招集はかからない。そんな時、
父は近山へ一人で兎追いにゆく「狩に行くのでなく追いに行くのだ」と祖母は笑って
いたから、いつの間にか私も「追いに行く」と言っていた。
野兎をゲットして凱旋する時もある。うさぎの肉もきっと食べたのだろうけど覚えていない。
 この冬、三度目の招集が掛かった。日の丸弁当を胴に巻いて出発。日の丸といっても麦飯
である。それでも祖母は、麦の上に洗い米をそっとのせて炊いた。お米の分の大方は父の
弁当になり、釜には麦ばかりが残った。これはいつもの事であるから、誰も何も言わない。
 また雪が降ってきた「寒いでよ今日ぐらい休んだら」
「駄目、だめだ。追い詰めているから今日は必ず仕留める」
自信あり気に出かけたと祖母は話していた。
 1週間、通い詰めようが、討ち取った日に休んでいたら獲物の分配はゼロである。一人や
二人では狩りはできないのだと知り、子供なりに大人の強い連帯感に感動したものだ。
 昼飯は、腹時計に合わせ陽を求めて少し移動する。僅かにさした木漏れ日の下で手袋を
脱いで暖かい息を吹きかける。白い息はすぐ消える。繰り返すうちに手は柔らかく暖かくなる。
 わっぱ(木の皮)で作った弁当箱は幾重にも包み腰に巻いているのでまだ温かみが残って
いる。いつものように一人で弁当を食べる。目の前の雪山の木の根本は丸くなり、大地が黒く
見える。葉を落とした木の細い枝が寒風に揺れる。常緑樹の葉の擦れ合う音のほか何も聞こ
えない。非日常の世界で、猪との遭遇をただ待っているのである。










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