第119話 世紀を超えた織物(1)

文字数 1,453文字

 昭和の初期、草ふかい寒村に私は生まれた。
小学校はずっと着物だった。夏の間は、カンタンフクという手足が出ているだけの
簡単な、服をまとっていたように思うが記憶は浅い。冬場は着物の重ね着、その上に
綿入の半纏を羽織って、藁草履に赤いたびを履いていた。赤い足袋がずっと続いて
あったか、どうかは記憶にない。雪の深い日は長靴があったのかもしれない。下駄を
履いていた記憶はある。雪合戦に興じていたから、靴を履いていたのだろう。しかし、
靴は貴重であったことに違いはない。
 通学用の着物には黄色や茶色が少し混ざっていた。それは、村にただ一軒ある呉服店
で買った着物である。四ツ身といって半反で作った着物、最初の頃は二重に上げがして
あった。が、成長に従い上げはだんだん浅くなっていった。
 下校するとすぐ常着(普段着)に着替えた。常着は祖母が機織りした縞の着物。または、
従姉妹のお下がりだったり、祖母や母の厚生品だったりした。いつも前掛けをしていて
前掛けには色々な色が入っていたように思う。ある日、帯を締めるのを忘れて登校した。
さあどうしょう。前掛けを帯の幅に折って代用したことがあった。幸い半纏を着ていた
から、誰にも気付かれずに恥ずかしい思いをせずに難を逃れた。
 1年生からは、自分のことのは自分でする。何よりも寒い間の洗濯は辛かった。
誰も手助けはしてくれなかった。5歳に満たないうちに母は逝っていなかったのだ。
 村も貧しく、周囲も貧しかったから、貧しさは何もいうことなし、当たり前で普通。
 3年生になり教科の中に家庭科が必須となり入った。学校で習うのは運針ばかりである。
形のあるものが作りたくて、お隣の青年学校へ行っているお姉さんにいろいろ習った。
下着や洋服も縫った。洋服といっても首と両手が出ているだけのものだが、幸いなことに
世の中、何もない時代だったから、別段恥ずかしいと思いをせずに済んだ。
 こうして、母のいない子は無常を成長とともに味わい、あきらめと平行して、
母はなくてもという根性だけは培われたようだ。
 戦後、間も無く青春を迎えやがて、結婚していった多くの友は、嫁入り道具に腐心
したことだろう。家と家のバランスによって、昔のままに嫁いで行った友。
大きな和箪笥に何を入れて満たしたのだろう。ひどいところでは祝い客が箪笥の
引き出しを見聞したというから、人権蹂躙もいいところだ。
それだけ着物は嫁入りの必需品であったし、嫁入り道具は竿で計算していた。
 00家の嫁は5竿で、**家は7竿だったというように。
 
 蔵の箪笥に母が嫁入りしたときの着物がほとんど残っていた。それを叔母が来て
毎年土用干しをしていた。戦中、戦後、もののないとき、私は母の遺品を私物化して
モンペにしたり洋服にしたりして得意がっていた。そのうち新しいものが出回り
厚生品は肩身が狭くなり、母の着物はまた箪笥で眠っていた。
 
 退職して毎日が日曜日になり母の遺品を整理することにした。
全て明治時代の代物である。縦糸は木綿、横糸は紬の袷の着物を解いた。
縫い糸は朽ちてはいないが軋んで糸が引けない。
 小鋏で一目づつ切り解きほぐした。
 洗い張りも自分でした。さあ何を作ろう。
表の紬は二部式の着物にした。上着の袖は巻き袖にして袖口は一寸(いっすん)狭くした。
私は今も尺貫法で昔使った2尺の鯨尺を使っている。
下はロングスカート式にして腰で締めてむすつんだ。
着やすく軽い上、暖かかった。ちょっとした和服を着た気分も味わい重宝した。
「いいね」と言われて半プロの気分になった。













から
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み